ようやく太陽が昇ってくる。おれは目を細め、大きく深呼吸した。
まだ部屋の中は薄青い。床に横たわる、あるいは壁にもたれた兵士たちは誰一人起きない。死んだように眠り込む彼ら。今は昨日のことも思い出すこともない。たとえ悪夢でうなされていようとも、目覚めれば記憶の輪郭は、昨日よりぼやけていることだろう。
おれは疲れているのに、最近は一睡もせずに、こうして朝を迎える。昨日の記憶をそのまま止めたままに。あれが夢ならどんなにいいだろう。
昨日もおれたちの敵である“やつら”と交戦した。
もう2年も戦っていた。突然、北極圏の上空に雲のようなものが出現した。そのうちツンドラ地帯に苔のようなものができて、そこは緑に変っていった。やがて恐ろしい事件が起きた。木が人を襲ったのだ。いや、正しくは、開発会社が森林伐採をしていたとき、木のような形だった謎の生命体が得体のしれない触手を伸ばし、人を殺したのだ。知能も感情の有無もまったく未知なるその生命体は、今度は人間のような形に変化した。軍が武器を使い殺そうとすると、同じように武器を持ち兵士を襲い始めた。
それが“やつら”だ。人間のような形というのは、パーツは人間のものと似ているが、顔は4面につき、すべての関節はどうでも動く奇怪さだからだ。恐ろしく醜い形相で、目が空洞のようで感情がなく、ただのコントロールされた道具のような化け物だが、実に効率のいい素早い動きをする。
だが、おれのくっきりとした記憶には、別の姿がある。昨日のことだ。あれが夢ならどんなにいいだろう。そいつは普通に人間の形だった。おれたちの側にいた人間だった。
本隊からはぐれたおれは、途中で合流したわずかな仲間と後退していた。同じ隊の幼なじみのミクニも戦闘ではぐれたまま連絡がとれない。衛星回線の故障なのか、それともやつらのせいなのか、通信機器が役にたたなくなっていた。昨日、同じ隊のシバノという男が合流した。彼も本部のある基地へと戻ろうとしていたのだ。おれたちは互いの無事を喜びあった。
シバノはまだ新兵だった。入隊して1年たたずにこの地へやって来た。「自分で志願したんだよ」と、彼は言った。給料がいいことが理由なのは皆同じだ。おれも「金がいいから」と、ミクニに入隊を勧められたことがきっかけだ。
だが、シバノの理由はそれだけじゃなかった。日常が「生きてる気がしなかった」のだそうだ。ならばまさにこの場所がスリリングでぴったりだろう。生きてるからこその死の恐怖を存分に味わえる。
おれはそんな変態じゃない。死ぬのは怖いし、この場所から逃げ出してしまいたい。仕事をやめ無職だったおれが、ミクニに入隊を勧められて何の決意も、何の覚悟もなくなんとなく兵士になって2年、もう2年だ。
シバノはおれにまっすぐなまなざしを向けた。
「国のためじゃない、敵がなんだろうとかまわない。ただ自分のために戦っている。いつかは辞めるんだろうが、今はこの一瞬を生きたい、それだけさ。シンプルに生きる、なあ、これってカッコよくない?」と、にやりといたずらっぽい顔をした。おれはなんとなく彼から目を反らした。
その直後に“やつら”と交戦になった。おれたちは条件反射のように、慣れた手つきで銃を構えた。あの姿が近づいてくる。まだだ、まだだ。あわてるな、もっと引きつけろ。心の中であせる自分に命じる。
突然、おれの隣にいたシバノが大声をあげて、銃を乱射し始めた。
「おい!」
せっかくおびき寄せて確実にしとめようとしていたのにと、落胆半分、怒り半分でつい怒鳴って、隣を向いた。
シバノはうめき、わめき、泣き叫び、いきなり大笑いする。ついさっきにやりとしたあの彼はどこにもいなかった。銃弾が飛び交い、爆音が響くなか、すっかり狂ってしまったシバノのその様を、おれだけが戦闘も忘れ唖然と見ていた。目を反らすことができなかった。
しだいにシバノの頭部の皮膚が歪み、裂けていく。すべての感情が出たような叫び声とともに顔じゃない場所にも顔が出現し、関節があらぬ方向へ折れ曲がっていった。それは、見慣れた“やつら”の姿そのものだった。
おれは何も考えられないまま、シバノを撃った。さっきまで親しみを込めて話していた彼に、何度も何度も弾を撃ち込んだ。何も考えられなかった。逃れたい一心だった。
大きくため息をついて、銃を抱え直す。今日も日が昇れば、基地に向って出発だ。ミクニも戻っているかもしれない。
2年、おれはなぜ今もここにいるんだろう。シバノのようにスリリングな生き方がしたいはずもないのに、なぜここに留まっているんだろう。またため息が出る。
そのとき、彼女の声が響いた。
「お兄ちゃん、アギエールの攻略できたっけ?」
いきなり昨日の話の続きだ。
時計を見る。時間ちょうど。おれたち兵士は高性能デバイスを装備している。妹のキエラは毎日必ずこの時間に交信してきた。このところ交信がうまくいかないなか、キエラとだけは交信ができた。
5日前、「やっと見つけた」と言う彼女の声を聞いたときは驚いた。おれたちの交信システムにハッキングするのはとても高度な技術が必要だったからだ。何してるのかと聞くと、「こういうタルい仕事」と彼女はくすっと笑った。
「どこででたやつだっけ、それ」おれは聞き返した。
ずいぶん昔のゲームの話だったが、それでも話さないよりマシだ。昨日のことを忘れたかった。
「最後の戦い!血しぶきがスローモーションで飛んで、壊れ方もすごいきれいだった」
キエラは生き生きとそのシーンのきれいさについて語るが、おれは彼女の感性にはついていけない。まるで昨日からキエラはずっと、そのゲームのことしか頭にないようだった。
「おれ見てない」
疲れた頭で、昔を思い出そうとする。確かに学生の頃はゲームもしていたが、勤め始めると次第にやる気をなくしていった。ゲームのことだけ考えてるわけにはいかない。現実は考えなくてはいけないことがありすぎた。
「ゼツボウ的にヘタすぎたよね」
妹はいたずらっぽく笑った。
「おまえみたいにずっとゲームしてるヒマなんてなかったよ」
こんなこと言っていいのかと、ちょっと不安になった。まだ5日だ、何と言うか慣れてない。キエラとこうやって話すのはものすごい久しぶりだったから。
おれはキエラと母さんと3人暮らしだった。妹は中学途中から5年くらいヒキコモリで、いつも部屋のドアには、おれが買い物してくるメモが貼られていた。ラーメンや菓子、雑誌、DVDの名前、メモはいつも物のことだけ、内面の感情なんかないみたいだった。
母さんはいつもおれを頼っていた。おれが働きだすと、自分の給料はパチンコに全部つぎ込んだ。買い物、朝晩メシ、掃除、ゴミ出し、電球切れた、テレビの録画どうするとか口はうるさいが、なんでもやるのはおれだった。いまは男と暮らしているらしいが、風呂の天井のカビや掃除機の中の袋は、今もそのままかもしれない。
「いつもお兄ちゃんがゴハン作ってくれたよね。ゴロゴロ石は嫌だったけど」
キエラのくすくす笑う声がした。焦げたハンバーグを食べてゴロゴロ石だと泣いたあの小さい頃のように、いまの妹は感情をちゃんとだす。
いつも母親の帰りが遅く、おれとキエラは先に食べた。小さい頃は叱る大人不在のなか、2人には食事も遊びのひとつで、テーブルをぐちゃぐちゃにしたこともあった。
「じゃね、もう行かなくちゃ」
妹はあれこれとゲームのことを楽しそうに語った後、そう言った。時計を見る。いつもきっかり13分だった。太陽もすっかり形を見せている。
再び静寂が訪れた。急に仲間が寝返りをしてどきりとするが、またすぐ静かになった。
眠っている仲間たちを見渡す。あれはいったい何だったんだろう。あれは、この仲間の中にはもういないのだろうか。
眠れない。やはりあれからずっと、リピートされ続ける恐怖に囚われたままだ。
そのとき、かさっと音がした。
突然の閃光、爆音。壁と人が吹き飛んだ。まただ。はいずるように避けた。
土埃が舞い上がり、人のわめき声、怒鳴り声、銃声、走る音が混然となって聞こえる。瓦礫に埋もれ、上半身だけ出して泣き叫ぶ男がすぐ近くに見えた。何かをつかもうとするかのように、手をのばしてわめいている。思わずその手をとり引っ張ろうとした。すがりつくように男の手に力がこもるが、大きな瓦礫の固まりはびくとも動かない。身体は無傷でも圧迫されていた身体が解放されると、急変して死んでしまった者を思い出す。
土埃の向うに奇怪なシルエットが見えた。奇妙な動き、いびつな頭の形、“やつら”だ。
これまでもそうだった。 “やつら”はおれたちの居場所を最初っから知っているかのように、確実に襲撃してくる。
だが、予想外の攻撃はしてこなかった。攻撃したら同じように攻撃し返す。それはある種の規則のようだった。そこには憎悪や感情のようなものは感じとれず、ただのコントロールされた道具のようにしか思えなかった。もしこれが生物というのなら、植物が根や枝を伸ばし、いつしか廃屋を覆ってしまっているような感じに近い。そういうことでは、身体に爆弾を巻き付けて飛び込んで来るような人間たちを相手にしている方が、はるかに戦いにくいだろう。
最初は誰もが大騒ぎで、マスコミも一斉に報道した。しかし、戦いは辺境で局地的であり、軍が出動し、押さえ込んでいるように見えた。国は意識的に情報を操作しているようだった。この状況をありのままに見せたら世の中の反応は今と違ったものになるだろう。“やつら”の出現から数年、世間の日常生活は普通にあり、直接遭遇することもない。ニュースでは負傷兵の映像が流れ、おいしい店とか流行りのものとかが流れる。もはやおれたちや“やつら”は、娯楽となりネタと化した。
憎悪に満ちた、民族紛争の悲惨な戦いに明け暮れる場所からひとつ国境をまたげば、隣国では普通の幸福な生活と無関心があるのと似たようなものだ。
だが、直接戦ってみると、どこに主体があるのか、どこに目的があるのかわからず、気付かぬうちにじわじわと浸蝕されていく、そういう感覚だ。それはおれにとって実に恐怖だった。
“やつら”がせまってくる。とうとうおれは仲間の手を離して逃げた。背後で、仲間の呼び声とも叫び声ともつかない声が聞こえていた。
それからおれはひたすら逃げた。仲間たちとも再びはぐれた。どれだけ移動したか、ようやく小さな水たまりを見つけ、辺りをうかがいながら足を止めた。
小さな水の流れが草地の間を縫うように集まり、水たまりを作っていた。
しゃがみながらヘルメットを脱ぐ。埃にすすけた顔を片手の甲でぬぐうと、水をすくった。冷たい。雪解け水がここまで流れてきているのだろう。夏とはいえ、夜は寒いくらいだ。顔を洗う。
あいつ、苦しまなかっただろうか。ふと見捨てた仲間のことが頭によぎったが、すぐに現在地や進行方向、水や食料の確保ができるかなどが頭を占領した。救えない者のことはかまっていられない。自分のことが先決だ。優先順位に沿う行動が身体にしみ込んでいる。
GPSを取り出した。現在地を確認しようとしたが、やはり作動しなかった。
どういう理由なのかわからない。たとえわかっていても上層部の情報はおれたちには伝えないこともある。まさか、おれたちが衛星を利用して“やつら”の行動を監視したように、“やつら”も衛星を乗っ取ったのだろうか。
不利な状況に、レーザー砲での対地攻撃も要請したことがあったが、許可されなかった。どうしてなのか。“やつら”のパターン、おれはそれが学習能力、模倣性のようなものだと思っている。もしそうならば、人間の攻撃と同じことをマネされることを怖れたのではと勘ぐっている。
辺りには人影もなく、草地があり、ときおり岩が転がり、遠くに山が見える。風の音が聞こえるだけだ。こんなところで戦っているというのが不思議だ。
再び両手を水たまりにつけようとして、そこに映る自分を見た。無精髭を伸ばし、髪はくしゃくしゃ、汚れた浅黒い顔。2年前のきちんとまっすぐにネクタイをした、ムカイという営業マンはどこにもいなかった。遠い別の世界の他人を思い出すような気分だ。
本当に不思議な感覚だ。いまのおれは、日常とは関係のないこの辺境の地で、立って3分で食事をかき込み、“やつら”に銃弾を浴びせ続ける。丸1日と同じ場所に留まらず転戦し、仲間をひきずり、泥まみれではいずりまわった。疲れ果て、雨の雫に当たろうと、ごつごつした岩を背にしようが、眠りを貪った。眠っているときだけは、そんな状況を忘れられたのに、いまの眠れないおれは、こうしてずっと記憶を積み重ねていくだけだ。
携帯食料をひとつ口に放り込む。栄養のみを考えた素っ気ないものだが、少しだけ甘くしてある。それをがりがりと音をたてて噛んだ。真っ暗な中、その噛む音だけが大きく響いているようだった。少し身震いする。この寒さは短い夏ももうすぐ終わることを告げている。
ずっと歩き続け、夜になって休憩をとった。火はつけない。もちろん携行電灯もつけない。これからどれだけこういう日が続くかわからない。少しでも節約しようということもあるが、目立って“やつら”に見つかりたくなかった。“やつら”が暗視するのかどうか知らないが、できないことも次の日には学習して、なんでもできそうな怖さがあった。
それは、寒さのため、天候がいいときだけヘリで前線へ行き、短時間で別の隊と交替しながらの戦いだった冬、凍り付き動けなくなった“やつら”が、2年目には雪まみれや氷まみれでも能率的な動きがまったく変らなくなっていたからだ。それが意思なのか、本能なのかはわからないが、人間のようになろうとしているというより、効率良くこの環境に適合していこうとしているようだった。“やつら”は確実に進化していく。それも地球上の生命の進化の時の長さを笑うがごとく、ものすごいスピードで、まるで神のように。
おれは両肩を抱え込み、さすりながらじっと夜が明けるのを待った。
キエラはまたやって来るだろうか。目を閉じる。おれは眠れないが、目を閉じた。いつしかキエラを待っている自分がいる。
キエラはなぜ、今ごろおれに連絡をくれたんだろうか。いっしょにいたときはあれほど会話がなくなってたのに。
妹がヒキコモリになったのは突然だった。忍び足で階段を下りてトイレに行くか、夜中に風呂に入る以外、部屋から出て来なかったから、おれはその間、ほとんどまともにキエラの姿を見てなかった。
2階の閉められた扉のメモを取りにいくのが日課で、つながりはそれだけだった。机に「死ね」と書かれたとか、クラス中にハブられたとか、そんなことだったのだろうか。最初は理由が気になったが、聞くこともないまま、そのうち妹が扉の向うでどうしているとか考えることもなくなっていた。
おれはコンビニで営業車止めて弁当を食べながら、金の心配をせず、ノルマの心配もせず、妹のお使いや家の用事も放って、母さんの言い訳やあれこれ頼みを聞かず、好きなことだけをしてずっと1人でいれたらどんなに楽しいだろうと、時々想像した。だけど、ヒキコモリも妹優先だ。だからおれはずっとネクタイをまっすぐ締めてるつもりだったんだ。
いま思えば、扉の向こうのキエラと話すべきだった。あのころの妹には大変な問題だったはずなのに。話さないと家族でもわからない。母さんがなぜいつもおれとキエラのご飯や洗濯や給食費や参観日、運動会よりパチンコが大事だったのかもわからないように、人の心の中はわからない。
目を開けると、うっすらと遠くに空と山の境目が見えていた。
この時間はいつも嫌だ。しんとしたこの世界にいるのが、まるで自分ひとりのような気分になってしまう。ここに来るまではそんなことは思ったこともなかった。昔と言うことがずいぶん違う自分がいる。ほんと勝手なもんだ。
「洗濯機、まだあのままだよ」
キエラだ。ほっとする。今日はゲームの話じゃなかった。
「ああ、そうだろな」
洗濯機は水が漏れ、脱水の音がすごく大きかった。「早く買い替えないと」と、いつも母さんが文句だけは言っていた。誰が買うんだよ。
おれの仕事の営業達成率は最低を更新し、唯一の営業同僚である後輩の新人にあっさり抜かれた。しかも得意先を取られて。
おれの勤める小さな会社は、不況のなか経費節約が大命題だった。会社の事情は厳しく、ボーナスも0.5カ月に減った。
おれは残業申請はしなかった。仕事で発注伝票のケタを間違えてしまうというあり得ない大失敗をしたとき、いつもは口酸っぱくノルマノルマと言ってる社長が、そのときは一言「がんばろうな」とだけ言って笑った。涙が出た。社長がどれだけ相手先に頭を下げているかよくわかっていたから、おれはそれが余計に、会社の役にたってない、能力がないという負い目になった。残業申請などできるわけがないじゃないか。
ドライヤーが壊れて電器店に買いに行ったとき、カードを作ったらポイントがつくし割引もしますよと言われ、カードを申し込んだが、年収欄が7分類の前から2つ目だった。おれはわざと申し込み欄の3つ目に丸をした。さえないな、きっとこれからもこんなもんだろうと思った。
「上から押さえつけてたらいいよ」
おれはがたがた音をたてて揺れる洗濯機を思い出す。小学5、6年の頃から毎朝、洗濯機をまわすのはおれの役目だった。朝起きると、まず洗濯機のスイッチを入れる。それから食事の支度、母さんを起こし、歯磨きしながら2階にあがって服を着替え、妹の部屋の扉に貼られたメモを取る。音が鳴ると、急いで階段を下り、洗濯機を押さえつける。毎日毎日オートマティック工場のように作業をこなした。
「そうだね」と言って、キエラがふふっと笑った。「戦場で、洗濯機の心配してくれてるなんて」
「なんだよ、おまえが言うから」
「ううん、お兄ちゃんらしいなあって」
「なんだよそれ」
「夏休みにプール、毎日行ったよね」
小学校の頃だ。妹はまだ21なのに昔の話をする。
「私が飛び込んで、他の子に当たって怪我させたとき、必死に探したのに、お兄ちゃん、知らん顔して泳いでた」
「おれだって怖かったんだろ。2つしか違わないんだ」
「でも帰り道、私をぐんぐん引っ張って歩いたとき、その手がなんか、ごめんて言ってるみたいだったよ」
どきっとした。
おれの妹はずっとこんなにやさしかったんだろうか。
「プールの金網の向こうに見えたダリヤ、すっごいきれいだったな。真っ青な空にダリヤが黒いほど真っ赤だった」
ずっとこんなに心を持っていたんだろうか。
ときおり通信が戻るGPSを頼りに、方向を修正しながら、小さな森を抜け3日半歩いた。その間、“やつら”にも味方にも遭遇しなかった。
少し冷たい風の抜けて行く音だけがする。戦いなど夢だったのかと思えるほど、静寂で穏やかだ。
「ねえ、一回お兄ちゃんが借りてきたDVD、AVが混じってた」
目を開ける。このところ『会う』のは1日に一度、夜明け頃に13分話すキエラだけだった。
「わけないだろ、頼まれたとおりのタイトルの借りたし」
「わざとでしょ」
「まさか」
ちょっとにやりとする。
「タイトル同じで、見てビックリ、超ウケルとでも思った?」
「怒って欲しかったんだよ、おれを」
扉を思いっきり開けて、怒鳴ってほしかった。感情を見たかったんだ。あのとき、AVは扉の前に、前の晩おれが置いたときと同じように積まれていただけだった。
「えぇー、なんてドM」
キエラは楽しそうに笑った。おれも笑った。
基地に辿り着いたのは、それから数時間後のことだ。
小高い丘の上から音が聞こえてきたかと思うと、一台の車がおれに向ってきた。
丘の向うに、厳重に警備される基地が見えて来た。簡易設置式の建物が並び、たくさんの車両も行き交っている。アスファルトで固められたヘリポートまできちんと整備されている。ヘリなんかそこらあたりどこでも離着陸できるだろうに、そういうことに金をかけるなら、もっと兵士を守るために使えといつも思う。
車で迎えに来た2人の兵士に連れられて、建物のひとつに入った。そこには見覚えのある顔があった。
「ミクニ!」
ミクニは疲れた目元を見開いた。「生きてたのか」
「ああ、なんとかな。おまえも無事でよかった」
「ムカイ、撃たれたんじゃなかったのか?」
彼は不安げにおれをじろじろと見た。
「え?いや、ほらこのとおり」と、おれは笑いかけた。
「覚えてないのか?」
ミクニの険しい顔に、笑顔が固まる。なんだって?
「人間もどきがここ何日かで3匹現れたそうだ。だがすぐに人間の姿を保てずに“やつら”の姿に戻った」
おれはあのシバノを思い出す。頭部の皮膚が歪み、裂け、すべての感情が出たような叫び声とともに顔じゃない場所にも顔が出現し、関節があらぬ方向へ折れ曲がっていき現れた“やつら”の姿。
「ああ、おれも見たよ」
「覚えてないのか?」またミクニが言う。「生きてる、はずがないんだ」
なんだって?
「ムカイは兵士になったキエラが捕まったのを助けようと無理しておまえらに撃たれて、だけどおれは助けられず撤退するしかなかったんだよ!」
両側にいた兵士がおれの両脇を固めた。
まさか。そんな。兵士はおれを迎えに来たんじゃなかった。
「妹とは毎日話している」自分の声が震えているのがわかった。
ミクニはコンピュータを指した。人工衛星が映っている。
「ムカイの妹は、“やつら”が乗っ取ったこのスパイ衛星に組み込まれたんだ」
おれはぼんやりと、その衛星でおれたちの動きが捉えられているとかの話を聞いていた。混乱して頭が働かない。
「衛星を撃墜する準備はできてる」
ミクニがそう言うのだけははっきり聞いた。
「妹は」どうなるんだ。おれはどうなるんだ。そんな話、嘘だ。
「もう死んだんだ。ムカイもキエラも。おまえらはムカイの身体を乗っ取ったんだ!このっ、化け物!」ミクニは銃を取った。「研究用だ」と、片方にいた兵士が止めようとした。
嘘だ。生きてる生きてる生きてる。
おれは彼の手の銃を蹴り飛ばし、両脇の兵士を振り払い走り出た。ミクニがなにか叫んだと思う。
キエラは18までヒキコモリだった。おれが無理やり頼み込んだコンビニにバイトにも行かせたが、すぐに客ともめごとを起こしてまた部屋にこもった。母さんはパチンコのために、おれの貯金にまで手を出した。おれが仕事で発注伝票のケタを間違えたのはそのころのことだ。本当につらかった。
「なんでいつもそうなんだ!それなら死ぬまでそうしてろ!」
そう言っておれは家を出た。あとで、妹がコンビニでもめた客が、ヒキコモリの原因になったかつての同級生だったと知った。
なんでおれはいまそれを思い出したんだろう。なんでおれは最近まったく眠れなくなったんだろう。どんどん不安が広がる。違うと言ってくれ、シバノと違うと誰か言ってくれ。
基地を出てずっと走った。走り続ける。
「部屋でひとりでいるの、つまんなかった」
白くなって来る空に、キエラの明るい声がした。おれは疲れていたが、意識は冴えたまま進み続ける。
「だってそれじゃ私、別にいてもいなくてもいいよねえ」
息があがる。必死で足を前に運ぶ。妹は本当に兵士だったのか。
「おれと同じ仕事、選んだのか」
「役に立ちたかった」すねたように言う。
「そんな仕事なら何でもあるじゃないか、看護士とか役所の何々課とか、ふれあいホームとか、不動産の事務とか」おれは早口でまくしたてる。
「不動産って」キエラが笑った。
「家探しのお役に立つだろ」
「お兄ちゃんの役に立ちたかった」
言葉につまる。
「いっぱい迷惑かけたもんね。たった2つしか違わないのに」
背負うのが重かった。だから仕事も家族も全部捨てたんだ。おれは捨てたんだよ、キエラ。
「もう来るな、危険なんだ」
おれの元へもう来るな。“やつら”が閉じたネットワークをおまえが意識的につないだとき、居場所が突き止められるんだよ。ミクニたちはいま、衛星に照準を合わせているだろう。助けたかった。 “やつら”を倒せば阻止できるかもしれないじゃないか。100%不可能なんてものはないんだ。
おれは、身体が奇妙に感じた。視界が広がりつつある。
「まだがんばれる。メンテナンスの13分だけは、思い出が、まだ私を私でいさせてくれる」
「行ってくれ!」
一気に周りが360度見え、身体が奇妙な方向に折れ曲がった。その瞬間、すべてを理解した。“やつら”のことを。ここで生きるため、記憶を身につけ人間に似せたものを何度か失敗したがようやく作り出した。より機能が必然的に進化し、もろい人間とは少し違った人間のようなものをだ。
おれは今人間のようなものになり、4面に顔を持ち、自由に動く関節でより速く、より目的地へと機能的に動く。キエラの記憶移植は、“やつら”と一体になった衛星に人間の感情と記憶を学習させるためだ。今はよく分かる。地球的物質でない“やつら”は雲のような形であり、木に似せた形であり、人間に似せた形であり、衛星の形であり、そしてようやく作り出した不眠者のおれで、分裂してはいるがすべてでひとつの存在だ。
だが、おれは“やつら”じゃない。キエラも道具じゃない。違う意思がある。記憶がそう言う。
おれはトリガーにかけた指に力をためながら、待ち受ける“おれであるやつら”に向って行った。そうだ、妹を助けようとしたあのときのムカイと同じように。
「洗濯機でヘビ回したり、カエルのおしりにストローで空気入れたりしたよね」と、キエラが笑う。懐かしい思い出。
銃弾が左肩の肉をえぐった。反動で身体がのけぞる。
「ハンバーグボウリング最高だった。転がしてテーブルぐちゃぐちゃになったけど」
愛すべき思い出。銃弾が右足を貫通した。傾いて転びそうになる。
「ゴロゴロ石のときはうまくいって……」
彼女の楽しそうな声は、あっけなくぷつっと途切れた。
おれは前へとよろめきながら銃を撃つ。
「ごめん」
4面のこの醜い顔から、雫がこぼれ落ちる。
「ごめんな」
そう言うのが“やつら”なのかムカイなのか、もはやわからない。ただ、自分と同じ姿たちを撃ち続ける。ずっと痛かった。傷じゃない。胸の真ん中がぎゅうっと潰れそうに痛かった。
360度の視界に、ようやく太陽が昇ってくる。薄青い静寂の時間。時計を見る。おれはきっと毎朝、こうしてキエラを待つだろう。漆黒の闇に散らばる衛星の破片。彼女は破片となってずっと地球を周り続ける。おれはそれをきれいだと思った。
まだがんばれる。おれは目を細め、大きく深呼吸した。
まだ部屋の中は薄青い。床に横たわる、あるいは壁にもたれた兵士たちは誰一人起きない。死んだように眠り込む彼ら。今は昨日のことも思い出すこともない。たとえ悪夢でうなされていようとも、目覚めれば記憶の輪郭は、昨日よりぼやけていることだろう。
おれは疲れているのに、最近は一睡もせずに、こうして朝を迎える。昨日の記憶をそのまま止めたままに。あれが夢ならどんなにいいだろう。
昨日もおれたちの敵である“やつら”と交戦した。
もう2年も戦っていた。突然、北極圏の上空に雲のようなものが出現した。そのうちツンドラ地帯に苔のようなものができて、そこは緑に変っていった。やがて恐ろしい事件が起きた。木が人を襲ったのだ。いや、正しくは、開発会社が森林伐採をしていたとき、木のような形だった謎の生命体が得体のしれない触手を伸ばし、人を殺したのだ。知能も感情の有無もまったく未知なるその生命体は、今度は人間のような形に変化した。軍が武器を使い殺そうとすると、同じように武器を持ち兵士を襲い始めた。
それが“やつら”だ。人間のような形というのは、パーツは人間のものと似ているが、顔は4面につき、すべての関節はどうでも動く奇怪さだからだ。恐ろしく醜い形相で、目が空洞のようで感情がなく、ただのコントロールされた道具のような化け物だが、実に効率のいい素早い動きをする。
だが、おれのくっきりとした記憶には、別の姿がある。昨日のことだ。あれが夢ならどんなにいいだろう。そいつは普通に人間の形だった。おれたちの側にいた人間だった。
本隊からはぐれたおれは、途中で合流したわずかな仲間と後退していた。同じ隊の幼なじみのミクニも戦闘ではぐれたまま連絡がとれない。衛星回線の故障なのか、それともやつらのせいなのか、通信機器が役にたたなくなっていた。昨日、同じ隊のシバノという男が合流した。彼も本部のある基地へと戻ろうとしていたのだ。おれたちは互いの無事を喜びあった。
シバノはまだ新兵だった。入隊して1年たたずにこの地へやって来た。「自分で志願したんだよ」と、彼は言った。給料がいいことが理由なのは皆同じだ。おれも「金がいいから」と、ミクニに入隊を勧められたことがきっかけだ。
だが、シバノの理由はそれだけじゃなかった。日常が「生きてる気がしなかった」のだそうだ。ならばまさにこの場所がスリリングでぴったりだろう。生きてるからこその死の恐怖を存分に味わえる。
おれはそんな変態じゃない。死ぬのは怖いし、この場所から逃げ出してしまいたい。仕事をやめ無職だったおれが、ミクニに入隊を勧められて何の決意も、何の覚悟もなくなんとなく兵士になって2年、もう2年だ。
シバノはおれにまっすぐなまなざしを向けた。
「国のためじゃない、敵がなんだろうとかまわない。ただ自分のために戦っている。いつかは辞めるんだろうが、今はこの一瞬を生きたい、それだけさ。シンプルに生きる、なあ、これってカッコよくない?」と、にやりといたずらっぽい顔をした。おれはなんとなく彼から目を反らした。
その直後に“やつら”と交戦になった。おれたちは条件反射のように、慣れた手つきで銃を構えた。あの姿が近づいてくる。まだだ、まだだ。あわてるな、もっと引きつけろ。心の中であせる自分に命じる。
突然、おれの隣にいたシバノが大声をあげて、銃を乱射し始めた。
「おい!」
せっかくおびき寄せて確実にしとめようとしていたのにと、落胆半分、怒り半分でつい怒鳴って、隣を向いた。
シバノはうめき、わめき、泣き叫び、いきなり大笑いする。ついさっきにやりとしたあの彼はどこにもいなかった。銃弾が飛び交い、爆音が響くなか、すっかり狂ってしまったシバノのその様を、おれだけが戦闘も忘れ唖然と見ていた。目を反らすことができなかった。
しだいにシバノの頭部の皮膚が歪み、裂けていく。すべての感情が出たような叫び声とともに顔じゃない場所にも顔が出現し、関節があらぬ方向へ折れ曲がっていった。それは、見慣れた“やつら”の姿そのものだった。
おれは何も考えられないまま、シバノを撃った。さっきまで親しみを込めて話していた彼に、何度も何度も弾を撃ち込んだ。何も考えられなかった。逃れたい一心だった。
大きくため息をついて、銃を抱え直す。今日も日が昇れば、基地に向って出発だ。ミクニも戻っているかもしれない。
2年、おれはなぜ今もここにいるんだろう。シバノのようにスリリングな生き方がしたいはずもないのに、なぜここに留まっているんだろう。またため息が出る。
そのとき、彼女の声が響いた。
「お兄ちゃん、アギエールの攻略できたっけ?」
いきなり昨日の話の続きだ。
時計を見る。時間ちょうど。おれたち兵士は高性能デバイスを装備している。妹のキエラは毎日必ずこの時間に交信してきた。このところ交信がうまくいかないなか、キエラとだけは交信ができた。
5日前、「やっと見つけた」と言う彼女の声を聞いたときは驚いた。おれたちの交信システムにハッキングするのはとても高度な技術が必要だったからだ。何してるのかと聞くと、「こういうタルい仕事」と彼女はくすっと笑った。
「どこででたやつだっけ、それ」おれは聞き返した。
ずいぶん昔のゲームの話だったが、それでも話さないよりマシだ。昨日のことを忘れたかった。
「最後の戦い!血しぶきがスローモーションで飛んで、壊れ方もすごいきれいだった」
キエラは生き生きとそのシーンのきれいさについて語るが、おれは彼女の感性にはついていけない。まるで昨日からキエラはずっと、そのゲームのことしか頭にないようだった。
「おれ見てない」
疲れた頭で、昔を思い出そうとする。確かに学生の頃はゲームもしていたが、勤め始めると次第にやる気をなくしていった。ゲームのことだけ考えてるわけにはいかない。現実は考えなくてはいけないことがありすぎた。
「ゼツボウ的にヘタすぎたよね」
妹はいたずらっぽく笑った。
「おまえみたいにずっとゲームしてるヒマなんてなかったよ」
こんなこと言っていいのかと、ちょっと不安になった。まだ5日だ、何と言うか慣れてない。キエラとこうやって話すのはものすごい久しぶりだったから。
おれはキエラと母さんと3人暮らしだった。妹は中学途中から5年くらいヒキコモリで、いつも部屋のドアには、おれが買い物してくるメモが貼られていた。ラーメンや菓子、雑誌、DVDの名前、メモはいつも物のことだけ、内面の感情なんかないみたいだった。
母さんはいつもおれを頼っていた。おれが働きだすと、自分の給料はパチンコに全部つぎ込んだ。買い物、朝晩メシ、掃除、ゴミ出し、電球切れた、テレビの録画どうするとか口はうるさいが、なんでもやるのはおれだった。いまは男と暮らしているらしいが、風呂の天井のカビや掃除機の中の袋は、今もそのままかもしれない。
「いつもお兄ちゃんがゴハン作ってくれたよね。ゴロゴロ石は嫌だったけど」
キエラのくすくす笑う声がした。焦げたハンバーグを食べてゴロゴロ石だと泣いたあの小さい頃のように、いまの妹は感情をちゃんとだす。
いつも母親の帰りが遅く、おれとキエラは先に食べた。小さい頃は叱る大人不在のなか、2人には食事も遊びのひとつで、テーブルをぐちゃぐちゃにしたこともあった。
「じゃね、もう行かなくちゃ」
妹はあれこれとゲームのことを楽しそうに語った後、そう言った。時計を見る。いつもきっかり13分だった。太陽もすっかり形を見せている。
再び静寂が訪れた。急に仲間が寝返りをしてどきりとするが、またすぐ静かになった。
眠っている仲間たちを見渡す。あれはいったい何だったんだろう。あれは、この仲間の中にはもういないのだろうか。
眠れない。やはりあれからずっと、リピートされ続ける恐怖に囚われたままだ。
そのとき、かさっと音がした。
突然の閃光、爆音。壁と人が吹き飛んだ。まただ。はいずるように避けた。
土埃が舞い上がり、人のわめき声、怒鳴り声、銃声、走る音が混然となって聞こえる。瓦礫に埋もれ、上半身だけ出して泣き叫ぶ男がすぐ近くに見えた。何かをつかもうとするかのように、手をのばしてわめいている。思わずその手をとり引っ張ろうとした。すがりつくように男の手に力がこもるが、大きな瓦礫の固まりはびくとも動かない。身体は無傷でも圧迫されていた身体が解放されると、急変して死んでしまった者を思い出す。
土埃の向うに奇怪なシルエットが見えた。奇妙な動き、いびつな頭の形、“やつら”だ。
これまでもそうだった。 “やつら”はおれたちの居場所を最初っから知っているかのように、確実に襲撃してくる。
だが、予想外の攻撃はしてこなかった。攻撃したら同じように攻撃し返す。それはある種の規則のようだった。そこには憎悪や感情のようなものは感じとれず、ただのコントロールされた道具のようにしか思えなかった。もしこれが生物というのなら、植物が根や枝を伸ばし、いつしか廃屋を覆ってしまっているような感じに近い。そういうことでは、身体に爆弾を巻き付けて飛び込んで来るような人間たちを相手にしている方が、はるかに戦いにくいだろう。
最初は誰もが大騒ぎで、マスコミも一斉に報道した。しかし、戦いは辺境で局地的であり、軍が出動し、押さえ込んでいるように見えた。国は意識的に情報を操作しているようだった。この状況をありのままに見せたら世の中の反応は今と違ったものになるだろう。“やつら”の出現から数年、世間の日常生活は普通にあり、直接遭遇することもない。ニュースでは負傷兵の映像が流れ、おいしい店とか流行りのものとかが流れる。もはやおれたちや“やつら”は、娯楽となりネタと化した。
憎悪に満ちた、民族紛争の悲惨な戦いに明け暮れる場所からひとつ国境をまたげば、隣国では普通の幸福な生活と無関心があるのと似たようなものだ。
だが、直接戦ってみると、どこに主体があるのか、どこに目的があるのかわからず、気付かぬうちにじわじわと浸蝕されていく、そういう感覚だ。それはおれにとって実に恐怖だった。
“やつら”がせまってくる。とうとうおれは仲間の手を離して逃げた。背後で、仲間の呼び声とも叫び声ともつかない声が聞こえていた。
それからおれはひたすら逃げた。仲間たちとも再びはぐれた。どれだけ移動したか、ようやく小さな水たまりを見つけ、辺りをうかがいながら足を止めた。
小さな水の流れが草地の間を縫うように集まり、水たまりを作っていた。
しゃがみながらヘルメットを脱ぐ。埃にすすけた顔を片手の甲でぬぐうと、水をすくった。冷たい。雪解け水がここまで流れてきているのだろう。夏とはいえ、夜は寒いくらいだ。顔を洗う。
あいつ、苦しまなかっただろうか。ふと見捨てた仲間のことが頭によぎったが、すぐに現在地や進行方向、水や食料の確保ができるかなどが頭を占領した。救えない者のことはかまっていられない。自分のことが先決だ。優先順位に沿う行動が身体にしみ込んでいる。
GPSを取り出した。現在地を確認しようとしたが、やはり作動しなかった。
どういう理由なのかわからない。たとえわかっていても上層部の情報はおれたちには伝えないこともある。まさか、おれたちが衛星を利用して“やつら”の行動を監視したように、“やつら”も衛星を乗っ取ったのだろうか。
不利な状況に、レーザー砲での対地攻撃も要請したことがあったが、許可されなかった。どうしてなのか。“やつら”のパターン、おれはそれが学習能力、模倣性のようなものだと思っている。もしそうならば、人間の攻撃と同じことをマネされることを怖れたのではと勘ぐっている。
辺りには人影もなく、草地があり、ときおり岩が転がり、遠くに山が見える。風の音が聞こえるだけだ。こんなところで戦っているというのが不思議だ。
再び両手を水たまりにつけようとして、そこに映る自分を見た。無精髭を伸ばし、髪はくしゃくしゃ、汚れた浅黒い顔。2年前のきちんとまっすぐにネクタイをした、ムカイという営業マンはどこにもいなかった。遠い別の世界の他人を思い出すような気分だ。
本当に不思議な感覚だ。いまのおれは、日常とは関係のないこの辺境の地で、立って3分で食事をかき込み、“やつら”に銃弾を浴びせ続ける。丸1日と同じ場所に留まらず転戦し、仲間をひきずり、泥まみれではいずりまわった。疲れ果て、雨の雫に当たろうと、ごつごつした岩を背にしようが、眠りを貪った。眠っているときだけは、そんな状況を忘れられたのに、いまの眠れないおれは、こうしてずっと記憶を積み重ねていくだけだ。
携帯食料をひとつ口に放り込む。栄養のみを考えた素っ気ないものだが、少しだけ甘くしてある。それをがりがりと音をたてて噛んだ。真っ暗な中、その噛む音だけが大きく響いているようだった。少し身震いする。この寒さは短い夏ももうすぐ終わることを告げている。
ずっと歩き続け、夜になって休憩をとった。火はつけない。もちろん携行電灯もつけない。これからどれだけこういう日が続くかわからない。少しでも節約しようということもあるが、目立って“やつら”に見つかりたくなかった。“やつら”が暗視するのかどうか知らないが、できないことも次の日には学習して、なんでもできそうな怖さがあった。
それは、寒さのため、天候がいいときだけヘリで前線へ行き、短時間で別の隊と交替しながらの戦いだった冬、凍り付き動けなくなった“やつら”が、2年目には雪まみれや氷まみれでも能率的な動きがまったく変らなくなっていたからだ。それが意思なのか、本能なのかはわからないが、人間のようになろうとしているというより、効率良くこの環境に適合していこうとしているようだった。“やつら”は確実に進化していく。それも地球上の生命の進化の時の長さを笑うがごとく、ものすごいスピードで、まるで神のように。
おれは両肩を抱え込み、さすりながらじっと夜が明けるのを待った。
キエラはまたやって来るだろうか。目を閉じる。おれは眠れないが、目を閉じた。いつしかキエラを待っている自分がいる。
キエラはなぜ、今ごろおれに連絡をくれたんだろうか。いっしょにいたときはあれほど会話がなくなってたのに。
妹がヒキコモリになったのは突然だった。忍び足で階段を下りてトイレに行くか、夜中に風呂に入る以外、部屋から出て来なかったから、おれはその間、ほとんどまともにキエラの姿を見てなかった。
2階の閉められた扉のメモを取りにいくのが日課で、つながりはそれだけだった。机に「死ね」と書かれたとか、クラス中にハブられたとか、そんなことだったのだろうか。最初は理由が気になったが、聞くこともないまま、そのうち妹が扉の向うでどうしているとか考えることもなくなっていた。
おれはコンビニで営業車止めて弁当を食べながら、金の心配をせず、ノルマの心配もせず、妹のお使いや家の用事も放って、母さんの言い訳やあれこれ頼みを聞かず、好きなことだけをしてずっと1人でいれたらどんなに楽しいだろうと、時々想像した。だけど、ヒキコモリも妹優先だ。だからおれはずっとネクタイをまっすぐ締めてるつもりだったんだ。
いま思えば、扉の向こうのキエラと話すべきだった。あのころの妹には大変な問題だったはずなのに。話さないと家族でもわからない。母さんがなぜいつもおれとキエラのご飯や洗濯や給食費や参観日、運動会よりパチンコが大事だったのかもわからないように、人の心の中はわからない。
目を開けると、うっすらと遠くに空と山の境目が見えていた。
この時間はいつも嫌だ。しんとしたこの世界にいるのが、まるで自分ひとりのような気分になってしまう。ここに来るまではそんなことは思ったこともなかった。昔と言うことがずいぶん違う自分がいる。ほんと勝手なもんだ。
「洗濯機、まだあのままだよ」
キエラだ。ほっとする。今日はゲームの話じゃなかった。
「ああ、そうだろな」
洗濯機は水が漏れ、脱水の音がすごく大きかった。「早く買い替えないと」と、いつも母さんが文句だけは言っていた。誰が買うんだよ。
おれの仕事の営業達成率は最低を更新し、唯一の営業同僚である後輩の新人にあっさり抜かれた。しかも得意先を取られて。
おれの勤める小さな会社は、不況のなか経費節約が大命題だった。会社の事情は厳しく、ボーナスも0.5カ月に減った。
おれは残業申請はしなかった。仕事で発注伝票のケタを間違えてしまうというあり得ない大失敗をしたとき、いつもは口酸っぱくノルマノルマと言ってる社長が、そのときは一言「がんばろうな」とだけ言って笑った。涙が出た。社長がどれだけ相手先に頭を下げているかよくわかっていたから、おれはそれが余計に、会社の役にたってない、能力がないという負い目になった。残業申請などできるわけがないじゃないか。
ドライヤーが壊れて電器店に買いに行ったとき、カードを作ったらポイントがつくし割引もしますよと言われ、カードを申し込んだが、年収欄が7分類の前から2つ目だった。おれはわざと申し込み欄の3つ目に丸をした。さえないな、きっとこれからもこんなもんだろうと思った。
「上から押さえつけてたらいいよ」
おれはがたがた音をたてて揺れる洗濯機を思い出す。小学5、6年の頃から毎朝、洗濯機をまわすのはおれの役目だった。朝起きると、まず洗濯機のスイッチを入れる。それから食事の支度、母さんを起こし、歯磨きしながら2階にあがって服を着替え、妹の部屋の扉に貼られたメモを取る。音が鳴ると、急いで階段を下り、洗濯機を押さえつける。毎日毎日オートマティック工場のように作業をこなした。
「そうだね」と言って、キエラがふふっと笑った。「戦場で、洗濯機の心配してくれてるなんて」
「なんだよ、おまえが言うから」
「ううん、お兄ちゃんらしいなあって」
「なんだよそれ」
「夏休みにプール、毎日行ったよね」
小学校の頃だ。妹はまだ21なのに昔の話をする。
「私が飛び込んで、他の子に当たって怪我させたとき、必死に探したのに、お兄ちゃん、知らん顔して泳いでた」
「おれだって怖かったんだろ。2つしか違わないんだ」
「でも帰り道、私をぐんぐん引っ張って歩いたとき、その手がなんか、ごめんて言ってるみたいだったよ」
どきっとした。
おれの妹はずっとこんなにやさしかったんだろうか。
「プールの金網の向こうに見えたダリヤ、すっごいきれいだったな。真っ青な空にダリヤが黒いほど真っ赤だった」
ずっとこんなに心を持っていたんだろうか。
ときおり通信が戻るGPSを頼りに、方向を修正しながら、小さな森を抜け3日半歩いた。その間、“やつら”にも味方にも遭遇しなかった。
少し冷たい風の抜けて行く音だけがする。戦いなど夢だったのかと思えるほど、静寂で穏やかだ。
「ねえ、一回お兄ちゃんが借りてきたDVD、AVが混じってた」
目を開ける。このところ『会う』のは1日に一度、夜明け頃に13分話すキエラだけだった。
「わけないだろ、頼まれたとおりのタイトルの借りたし」
「わざとでしょ」
「まさか」
ちょっとにやりとする。
「タイトル同じで、見てビックリ、超ウケルとでも思った?」
「怒って欲しかったんだよ、おれを」
扉を思いっきり開けて、怒鳴ってほしかった。感情を見たかったんだ。あのとき、AVは扉の前に、前の晩おれが置いたときと同じように積まれていただけだった。
「えぇー、なんてドM」
キエラは楽しそうに笑った。おれも笑った。
基地に辿り着いたのは、それから数時間後のことだ。
小高い丘の上から音が聞こえてきたかと思うと、一台の車がおれに向ってきた。
丘の向うに、厳重に警備される基地が見えて来た。簡易設置式の建物が並び、たくさんの車両も行き交っている。アスファルトで固められたヘリポートまできちんと整備されている。ヘリなんかそこらあたりどこでも離着陸できるだろうに、そういうことに金をかけるなら、もっと兵士を守るために使えといつも思う。
車で迎えに来た2人の兵士に連れられて、建物のひとつに入った。そこには見覚えのある顔があった。
「ミクニ!」
ミクニは疲れた目元を見開いた。「生きてたのか」
「ああ、なんとかな。おまえも無事でよかった」
「ムカイ、撃たれたんじゃなかったのか?」
彼は不安げにおれをじろじろと見た。
「え?いや、ほらこのとおり」と、おれは笑いかけた。
「覚えてないのか?」
ミクニの険しい顔に、笑顔が固まる。なんだって?
「人間もどきがここ何日かで3匹現れたそうだ。だがすぐに人間の姿を保てずに“やつら”の姿に戻った」
おれはあのシバノを思い出す。頭部の皮膚が歪み、裂け、すべての感情が出たような叫び声とともに顔じゃない場所にも顔が出現し、関節があらぬ方向へ折れ曲がっていき現れた“やつら”の姿。
「ああ、おれも見たよ」
「覚えてないのか?」またミクニが言う。「生きてる、はずがないんだ」
なんだって?
「ムカイは兵士になったキエラが捕まったのを助けようと無理しておまえらに撃たれて、だけどおれは助けられず撤退するしかなかったんだよ!」
両側にいた兵士がおれの両脇を固めた。
まさか。そんな。兵士はおれを迎えに来たんじゃなかった。
「妹とは毎日話している」自分の声が震えているのがわかった。
ミクニはコンピュータを指した。人工衛星が映っている。
「ムカイの妹は、“やつら”が乗っ取ったこのスパイ衛星に組み込まれたんだ」
おれはぼんやりと、その衛星でおれたちの動きが捉えられているとかの話を聞いていた。混乱して頭が働かない。
「衛星を撃墜する準備はできてる」
ミクニがそう言うのだけははっきり聞いた。
「妹は」どうなるんだ。おれはどうなるんだ。そんな話、嘘だ。
「もう死んだんだ。ムカイもキエラも。おまえらはムカイの身体を乗っ取ったんだ!このっ、化け物!」ミクニは銃を取った。「研究用だ」と、片方にいた兵士が止めようとした。
嘘だ。生きてる生きてる生きてる。
おれは彼の手の銃を蹴り飛ばし、両脇の兵士を振り払い走り出た。ミクニがなにか叫んだと思う。
キエラは18までヒキコモリだった。おれが無理やり頼み込んだコンビニにバイトにも行かせたが、すぐに客ともめごとを起こしてまた部屋にこもった。母さんはパチンコのために、おれの貯金にまで手を出した。おれが仕事で発注伝票のケタを間違えたのはそのころのことだ。本当につらかった。
「なんでいつもそうなんだ!それなら死ぬまでそうしてろ!」
そう言っておれは家を出た。あとで、妹がコンビニでもめた客が、ヒキコモリの原因になったかつての同級生だったと知った。
なんでおれはいまそれを思い出したんだろう。なんでおれは最近まったく眠れなくなったんだろう。どんどん不安が広がる。違うと言ってくれ、シバノと違うと誰か言ってくれ。
基地を出てずっと走った。走り続ける。
「部屋でひとりでいるの、つまんなかった」
白くなって来る空に、キエラの明るい声がした。おれは疲れていたが、意識は冴えたまま進み続ける。
「だってそれじゃ私、別にいてもいなくてもいいよねえ」
息があがる。必死で足を前に運ぶ。妹は本当に兵士だったのか。
「おれと同じ仕事、選んだのか」
「役に立ちたかった」すねたように言う。
「そんな仕事なら何でもあるじゃないか、看護士とか役所の何々課とか、ふれあいホームとか、不動産の事務とか」おれは早口でまくしたてる。
「不動産って」キエラが笑った。
「家探しのお役に立つだろ」
「お兄ちゃんの役に立ちたかった」
言葉につまる。
「いっぱい迷惑かけたもんね。たった2つしか違わないのに」
背負うのが重かった。だから仕事も家族も全部捨てたんだ。おれは捨てたんだよ、キエラ。
「もう来るな、危険なんだ」
おれの元へもう来るな。“やつら”が閉じたネットワークをおまえが意識的につないだとき、居場所が突き止められるんだよ。ミクニたちはいま、衛星に照準を合わせているだろう。助けたかった。 “やつら”を倒せば阻止できるかもしれないじゃないか。100%不可能なんてものはないんだ。
おれは、身体が奇妙に感じた。視界が広がりつつある。
「まだがんばれる。メンテナンスの13分だけは、思い出が、まだ私を私でいさせてくれる」
「行ってくれ!」
一気に周りが360度見え、身体が奇妙な方向に折れ曲がった。その瞬間、すべてを理解した。“やつら”のことを。ここで生きるため、記憶を身につけ人間に似せたものを何度か失敗したがようやく作り出した。より機能が必然的に進化し、もろい人間とは少し違った人間のようなものをだ。
おれは今人間のようなものになり、4面に顔を持ち、自由に動く関節でより速く、より目的地へと機能的に動く。キエラの記憶移植は、“やつら”と一体になった衛星に人間の感情と記憶を学習させるためだ。今はよく分かる。地球的物質でない“やつら”は雲のような形であり、木に似せた形であり、人間に似せた形であり、衛星の形であり、そしてようやく作り出した不眠者のおれで、分裂してはいるがすべてでひとつの存在だ。
だが、おれは“やつら”じゃない。キエラも道具じゃない。違う意思がある。記憶がそう言う。
おれはトリガーにかけた指に力をためながら、待ち受ける“おれであるやつら”に向って行った。そうだ、妹を助けようとしたあのときのムカイと同じように。
「洗濯機でヘビ回したり、カエルのおしりにストローで空気入れたりしたよね」と、キエラが笑う。懐かしい思い出。
銃弾が左肩の肉をえぐった。反動で身体がのけぞる。
「ハンバーグボウリング最高だった。転がしてテーブルぐちゃぐちゃになったけど」
愛すべき思い出。銃弾が右足を貫通した。傾いて転びそうになる。
「ゴロゴロ石のときはうまくいって……」
彼女の楽しそうな声は、あっけなくぷつっと途切れた。
おれは前へとよろめきながら銃を撃つ。
「ごめん」
4面のこの醜い顔から、雫がこぼれ落ちる。
「ごめんな」
そう言うのが“やつら”なのかムカイなのか、もはやわからない。ただ、自分と同じ姿たちを撃ち続ける。ずっと痛かった。傷じゃない。胸の真ん中がぎゅうっと潰れそうに痛かった。
360度の視界に、ようやく太陽が昇ってくる。薄青い静寂の時間。時計を見る。おれはきっと毎朝、こうしてキエラを待つだろう。漆黒の闇に散らばる衛星の破片。彼女は破片となってずっと地球を周り続ける。おれはそれをきれいだと思った。
まだがんばれる。おれは目を細め、大きく深呼吸した。
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コメント
1. よかったです
あちらの感想欄で書いたとおり『13分キエラ』の改稿版を心待ちにしており、密かにちょこちょこ覗かせてもらってました。
う~む、やっぱこれぐらいの長さが必要なネタだったのかもしれませんね~^^; 待った甲斐があったというかオツリがくる出来だと思いました。すごく愉しかったぁ、感謝です♪
2. 読了!
この手の内容になると、やっぱりちゃんとしたイントロダクションがないと、読者には伝わり難いですよね。今回、改稿篇を出したのは正解だと思いました。
ムカイくん、生き抜いて、最終的にはどこへ行きつくのか、どうなるのか、気になりますが、そこは勝手に想像させていただきます。
mickyさん、以前より人物の内面を書くの、大分上手くなったなあって思うこの頃です。次の作品も楽しみにしています…(ってか、「コール」の続きはどうした?)
3. 道三さんへ
こちらこそFCではお世話になりました。
やっとアップできたものの、自分としては実はまだまだ足りないと思ってますが、FCで道三さんやみなさんからいただいた感想を参考にさせてもらって、おかげでようやくここまでたどりつけたという感じです。
読んでもらって、前回よりマシ(?)に思っていただき、何よりもたのしんで(←これ重要ですよね!)いただけてよかったです。こちらもうれしいです♫ありがとうございました!
4. 古反故さんへ
SFはあれほどツッコミどころ満載よって自分で言っといてこれですから。(笑)
そうそう、導入部だけは力入ったんですが(いつも最初だけは力はいってるワタシ)その分、キエラ気配が薄くなったような感じします。私はあくまでも兄妹話テーマだったので。あともちろん必要でない余白はまだあるんですが、必要な余白部分みたいなものがなくなっちゃったとも思ってます。
ラストはこれからどうするのかなと想像してもらうように、あくまでも前向きに力技で(笑)終わりました。
人間の内面、少しは上達しましたか?そう言ってもらうと嬉しいです。自分ではよくわかりませんケド。(^▽^)
本当に読んでもらってありがとうございました!
え? 「コール」? テヘッ