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ニュースで見た日本企業の「人材投資」対GDPグラフにびっくりした。OJT(実際の職場で実務を通して習うこと)以外の人材投資が激しく低いのだ。米国は1995年からの時系列でも伸びていて2.08%と圧倒的に高く、フランス、ドイツ、イタリア、英国も1%台。英国は95年は米国よりも高かったが、いまや半減。日本はといえば、なんと0.1%と圧倒的に少ない。95年も低いのが、さらにどんどん低くなっている。どん詰まりである。給料は安く抑えられ、非正規増やし、人材に金をかけない状況がずいぶん前から変わりないが、人材に重きを置いてないということなんだろう。で、いくらオリエンテーションやら、教育したところで、業種にもよるだろうが、新入社員のかなりの比率が1年以内でやめる。まったくコスパが悪いとはこのことだ。人材への教育自体にも大問題がある。会社は思いついたように教育機会を持つと、わざわざ出張させ、そこに時間と金をかけるはいいが、学習、課題提出など、やった感だけはある。なんせその教育セクションはそれが役割だから、こんなことしましたというのが、評価となるからだ。しかし、実際、自分も様々な教育、研修を受けまくった、その経験からでしか言えないが、まず、その研修が実務に役立ったためしがない。絵に描いた餅そのものなのだ。本に書かれた理想的理論を学習したところで、実務で使いようがない。まず、上とそういうものを共有していない。自分の判断でできることなど限られてる。実務レベルに落とし込んだら、仕事が終わらない。こうして、課題も机上の空論をさも実践しましたかのように書いて提出するのだ。バカみたいやなあと思っていた。企業の運営責任者たち自体が、自分たちの仕事の本質をスルーして、こういう学習が役立つとみんな根拠もなく思ってる。結局、慣例だからとか、うまくいってるからとか、変化することを嫌っているとしか思えない。だから、本気で人材の才能を引き出そうとは全く思ってないのだ。下の役職のものが、上に提案することなど、文句を言ってるとしか思われないような企業風土。風通りが良くないよな。いまどきないやろとは思うが、それでもやはりいまどきでも、現実、上にはイエスマンで「かわいがられ」ないと出世はできない。若い世代ほどそういうのがほんとに嫌で、わからないだろなと思う。今後はみなさん、ますます長い年月、働き続けていくだろうと思われるが、転職したくても、年齢が上がるほど、たいていが転職したら年収が下がる。家族を背負っていると責任というものがついてまわり、自分で起業して稼げる人でない限り、我慢し続けていくしかない。会社が人を解雇するハードルが高いのと、社会の労働市場の流動性のなさが表裏一体となっている。閉塞的安定の名のもとに、円の価値は下がり、仕方ないと言いながら、みんなで静かに貧しくなっていく。日本人が最も社会人になってから勉強しないというが、そりゃそうもなるだろうと、納得しかない。PR
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いい加減なやっちゃなと思われてるだろう。生まれついてのいい加減だったわけではない。小学校低学年までは、確かに自由奔放なサルのような野生児だった。だが、高学年になってくると、そのあたりからまわりの目が気になってくる。友達との密度も大人よりなんか濃い。で、一度友達を悪気はないのに傷つけてしまった。そのときは、大いにショックで、それ以来、傷つけることが怖くなり、自分をあまり主張しなくなった。そこから思春期突入とともに、ますます主張しない、深入りしない、自分の意見を言わない難しいお年頃になる。悩むのだ。自分の考えを言うことが、相手を傷つけてしまう、それは悪いことなのか?たとえ嘘であっても、相手を思っての嘘なら、それの方がいいのだろうか?とまあ、大真面目である。元がサルのような野生児特性なんだから、そりゃあ、自分の中でも矛盾、人格乖離しがちな困惑があったろう。子どもならではの青臭い悩み方が、振り返ると、逆にそれが特権のようで羨ましくもある。大人になって、仕事をしはじめ、あるとき、はたと気づく。悩んで解決することなら悩めばいいが、解決しないことをくよくよ考えても仕方ないやん。昔の「筋肉少女帯」の歌詞に“泣いて死んだ恋人が蘇りますか?”というのがあった。まさしくそれだ。悲しいのは仕方がないが、泣いても状況はまったく変わらない、真理だ。世の不条理にもまれ、対人関係も利害関係が生まれ、上からの指示は嫌でも何でもやらされ、ババひいたような仕事押し付けられ、抗いようもなく荒波に流され、浮いたり沈んだりした“成果”である。子どものころのあのきれいな悩みなど、果てしなくとおぉーくへ消え去った。変なもので、仕事のときとプライベートとはまるで二重人格のように違った。どうしても仕事は役職とかつけば、“責任感”という名のもとに、まわりを仕切りたおすしかないとばかりに、リーダーシップを発揮する自分がいる。本来、全然そんなタイプでない。一人でほっといてほしい、何事もひとりで勝手にするのが好きなのだが、チームとしてやらなければいけないからには、豹変するのだ。チームの業績のためには、上司にさえ、言うべきことは言いまくる自分がいた。かつてのセンシティブな(笑)悩んで引っ込んでいった子どもはどこに行った?そして、疲労感の果てに、解決しないことは考えても仕方がないに至ったわけだ。人を変えることはできない。自分が変わるしかない。プライベートでは、どんどんこだわりをなくしていく。こだわることは自分自身だけの、これだけはと思うものでいい。相手がいるときは、相手に近づく。執着しない生き方がきっと楽でいいよなと思う。そういえばサルのような野生児の頃も、執着しなかった。目の前の楽しいことだけ、上っ面を滑った。軽い。重荷が嫌いなだけだと思う。それが、物を持たないふらりと旅することへの憧れにつながっているんだろうな。こだわることがいいという人ももちろんいる。人によって意見はいろいろ。自分はできるだけ適当に、ものすごく良く言うと、フレキシブルに生きたい。なんていうポジティブ思考!だが、人生は一度きりなんじゃー!上を向いて楽しく、何事も適当に決めつけないで生きる方が断然いいと自分は思ってる。
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19世紀末のオーストリアの画家だ。この画家を初めて知ったのは、絵葉書を見たときだ。色使いがきれいで、なにげなく手に取った。現代のイラストレーターの作品かと思った。まさかずいぶん昔の、ある程度名前の知られた画家とは思わなかった。それくらい古さを感じなかったからだ。他の絵もいろいろ見たが、ずいぶんと自画像が多い。かなりナルシスティックだが、それは直線的な絵の感じも相まって、おのれへの関心も、ギスギスした痛々しいまでのえぐるような見方だった。自分のどこに、そんなに関心を持ち続けていたのだろうか。彼はクリムトに憧れ?みたいなものがあったようだが、クリムトはあまりに彼とは正反対。クリムトは自画像は描かなかったし、きれいで華麗に女性を描いた。対してエゴン・シーレは笑ってしまうくらい、語弊を恐れず言うと、変態的なまでに女性も、自分も生々しいリアルな表現をしている。クリムトのようにとは、本人自体がわかってなさすぎる。無茶すぎるだろと笑ってしまった。どこにもみじんもクリムト要素はない。だが、有名なクリムトより、個人的にはずっとエゴン・シーレの絵が大好きだ。クリムトの絵が寝室とか居間に飾ってあったらとても合うだろう。エゴン・シーレの絵は不安を感じさせる。今でも衝撃的にパンクな絵だと思う。しかし、彼の風景画となると、いきなり静かな、暗い、寂しい、でも繊細な色使いが美しい表現に変わる。その彼の心象の幅にずっと興味を抱いている。