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Googleは、スマホと連携し、翻訳アプリでリアルタイム同時通訳機能を提供しているというニュースを見た。すごいな、外国語覚えなくても、理解し合えるんだと思ったが、ちょっと別のニュースも気になった。
人工知能が訳せない日本語がある。例にあったが「行けたら行くわ」。確かにこの言葉の意味合いは、時間や都合がつけば行く、気が変わったら行く、興味がないから行かないなど、微妙に行く確率が変わるパターンが考えられる。または話し合いの中での無言や、そうですね、といった曖昧な反応。会社の会議なんかでよくあるやつだが、これは通訳どうするんだろうか。無言は無視され、そうですねは肯定的に捉えられると思う。日本人同士だと、そうじゃないんだけどね。その状況でニュアンスが、言わなくてもみんなわかってる。
そこで調べると、日本語はハイ・コンテキスト(状況・文脈)文化なんだそうな。空気を読むってことか?うーむ、確かに互いに空気読み合いだもんねえ。
歩いてるだけでも。一本の道で向こうからやってくる人がいたら、おのずと見たとたんにかわす準備に入る。歩くサイドをどちらかに寄る。たぶん、向こうからくる人も同じように察している。そして、近づきすれ違うときにどうするか、なんとなく相手を読もうとする。雰囲気的に視線を合わせて挨拶しそうか、知らん顔か、それともなんとなーく首くらい傾けるか、いろいろ無意識に探るのである。最悪なのは相手が挨拶したのに、こちらが無視したように通り過ぎてしまった後だったりする。だから、それは避けたいからなんとなく微妙な会釈なり、首かっくんなり、先に少しだけ反応しておくのだ。それなら最初から大声できっぱりとこんにちは!と言えばいいじゃないかと言う感じだが、日本人は、そこはなんとなくできないのだ。浮きまくったら嫌だし。あと、そんなハイテンションの人はあまりいないし。
書いてて思ったが、こういう脳内展開は、ほんとうに無意識にやってる。子供のころから「鍛え上げられた技」だ。だから状況・文脈って日本語のキモなんだろなあ。
ひらがな、カタカナ、漢字、音読み・訓読み、同じ漢字が使い方で読みがいろいろ違う、数え方がものによって違う、関係性で表現変わるわ、謙譲語、尊敬語とか使い方わからない、など、こんなにいろいろあるのに、そのうえ沈黙やら曖昧やらそこを察しなければいけないという、日本人はAIでもわからないくらい大変な日本語を、よく駆使しまくっているよなと、改めて感心したとこ。PR -
ニュースで見た日本企業の「人材投資」対GDPグラフにびっくりした。OJT(実際の職場で実務を通して習うこと)以外の人材投資が激しく低いのだ。米国は1995年からの時系列でも伸びていて2.08%と圧倒的に高く、フランス、ドイツ、イタリア、英国も1%台。英国は95年は米国よりも高かったが、いまや半減。日本はといえば、なんと0.1%と圧倒的に少ない。95年も低いのが、さらにどんどん低くなっている。どん詰まりである。給料は安く抑えられ、非正規増やし、人材に金をかけない状況がずいぶん前から変わりないが、人材に重きを置いてないということなんだろう。で、いくらオリエンテーションやら、教育したところで、業種にもよるだろうが、新入社員のかなりの比率が1年以内でやめる。まったくコスパが悪いとはこのことだ。人材への教育自体にも大問題がある。会社は思いついたように教育機会を持つと、わざわざ出張させ、そこに時間と金をかけるはいいが、学習、課題提出など、やった感だけはある。なんせその教育セクションはそれが役割だから、こんなことしましたというのが、評価となるからだ。しかし、実際、自分も様々な教育、研修を受けまくった、その経験からでしか言えないが、まず、その研修が実務に役立ったためしがない。絵に描いた餅そのものなのだ。本に書かれた理想的理論を学習したところで、実務で使いようがない。まず、上とそういうものを共有していない。自分の判断でできることなど限られてる。実務レベルに落とし込んだら、仕事が終わらない。こうして、課題も机上の空論をさも実践しましたかのように書いて提出するのだ。バカみたいやなあと思っていた。企業の運営責任者たち自体が、自分たちの仕事の本質をスルーして、こういう学習が役立つとみんな根拠もなく思ってる。結局、慣例だからとか、うまくいってるからとか、変化することを嫌っているとしか思えない。だから、本気で人材の才能を引き出そうとは全く思ってないのだ。下の役職のものが、上に提案することなど、文句を言ってるとしか思われないような企業風土。風通りが良くないよな。いまどきないやろとは思うが、それでもやはりいまどきでも、現実、上にはイエスマンで「かわいがられ」ないと出世はできない。若い世代ほどそういうのがほんとに嫌で、わからないだろなと思う。今後はみなさん、ますます長い年月、働き続けていくだろうと思われるが、転職したくても、年齢が上がるほど、たいていが転職したら年収が下がる。家族を背負っていると責任というものがついてまわり、自分で起業して稼げる人でない限り、我慢し続けていくしかない。会社が人を解雇するハードルが高いのと、社会の労働市場の流動性のなさが表裏一体となっている。閉塞的安定の名のもとに、円の価値は下がり、仕方ないと言いながら、みんなで静かに貧しくなっていく。日本人が最も社会人になってから勉強しないというが、そりゃそうもなるだろうと、納得しかない。
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いい加減なやっちゃなと思われてるだろう。生まれついてのいい加減だったわけではない。小学校低学年までは、確かに自由奔放なサルのような野生児だった。だが、高学年になってくると、そのあたりからまわりの目が気になってくる。友達との密度も大人よりなんか濃い。で、一度友達を悪気はないのに傷つけてしまった。そのときは、大いにショックで、それ以来、傷つけることが怖くなり、自分をあまり主張しなくなった。そこから思春期突入とともに、ますます主張しない、深入りしない、自分の意見を言わない難しいお年頃になる。悩むのだ。自分の考えを言うことが、相手を傷つけてしまう、それは悪いことなのか?たとえ嘘であっても、相手を思っての嘘なら、それの方がいいのだろうか?とまあ、大真面目である。元がサルのような野生児特性なんだから、そりゃあ、自分の中でも矛盾、人格乖離しがちな困惑があったろう。子どもならではの青臭い悩み方が、振り返ると、逆にそれが特権のようで羨ましくもある。大人になって、仕事をしはじめ、あるとき、はたと気づく。悩んで解決することなら悩めばいいが、解決しないことをくよくよ考えても仕方ないやん。昔の「筋肉少女帯」の歌詞に“泣いて死んだ恋人が蘇りますか?”というのがあった。まさしくそれだ。悲しいのは仕方がないが、泣いても状況はまったく変わらない、真理だ。世の不条理にもまれ、対人関係も利害関係が生まれ、上からの指示は嫌でも何でもやらされ、ババひいたような仕事押し付けられ、抗いようもなく荒波に流され、浮いたり沈んだりした“成果”である。子どものころのあのきれいな悩みなど、果てしなくとおぉーくへ消え去った。変なもので、仕事のときとプライベートとはまるで二重人格のように違った。どうしても仕事は役職とかつけば、“責任感”という名のもとに、まわりを仕切りたおすしかないとばかりに、リーダーシップを発揮する自分がいる。本来、全然そんなタイプでない。一人でほっといてほしい、何事もひとりで勝手にするのが好きなのだが、チームとしてやらなければいけないからには、豹変するのだ。チームの業績のためには、上司にさえ、言うべきことは言いまくる自分がいた。かつてのセンシティブな(笑)悩んで引っ込んでいった子どもはどこに行った?そして、疲労感の果てに、解決しないことは考えても仕方がないに至ったわけだ。人を変えることはできない。自分が変わるしかない。プライベートでは、どんどんこだわりをなくしていく。こだわることは自分自身だけの、これだけはと思うものでいい。相手がいるときは、相手に近づく。執着しない生き方がきっと楽でいいよなと思う。そういえばサルのような野生児の頃も、執着しなかった。目の前の楽しいことだけ、上っ面を滑った。軽い。重荷が嫌いなだけだと思う。それが、物を持たないふらりと旅することへの憧れにつながっているんだろうな。こだわることがいいという人ももちろんいる。人によって意見はいろいろ。自分はできるだけ適当に、ものすごく良く言うと、フレキシブルに生きたい。なんていうポジティブ思考!だが、人生は一度きりなんじゃー!上を向いて楽しく、何事も適当に決めつけないで生きる方が断然いいと自分は思ってる。