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19世紀末のオーストリアの画家だ。この画家を初めて知ったのは、絵葉書を見たときだ。色使いがきれいで、なにげなく手に取った。現代のイラストレーターの作品かと思った。まさかずいぶん昔の、ある程度名前の知られた画家とは思わなかった。それくらい古さを感じなかったからだ。他の絵もいろいろ見たが、ずいぶんと自画像が多い。かなりナルシスティックだが、それは直線的な絵の感じも相まって、おのれへの関心も、ギスギスした痛々しいまでのえぐるような見方だった。自分のどこに、そんなに関心を持ち続けていたのだろうか。彼はクリムトに憧れ?みたいなものがあったようだが、クリムトはあまりに彼とは正反対。クリムトは自画像は描かなかったし、きれいで華麗に女性を描いた。対してエゴン・シーレは笑ってしまうくらい、語弊を恐れず言うと、変態的なまでに女性も、自分も生々しいリアルな表現をしている。クリムトのようにとは、本人自体がわかってなさすぎる。無茶すぎるだろと笑ってしまった。どこにもみじんもクリムト要素はない。だが、有名なクリムトより、個人的にはずっとエゴン・シーレの絵が大好きだ。クリムトの絵が寝室とか居間に飾ってあったらとても合うだろう。エゴン・シーレの絵は不安を感じさせる。今でも衝撃的にパンクな絵だと思う。しかし、彼の風景画となると、いきなり静かな、暗い、寂しい、でも繊細な色使いが美しい表現に変わる。その彼の心象の幅にずっと興味を抱いている。PR
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もともと、眠れないということがない。
あ、翌日の仕事のことを考えて、眠れなくなったことは数回はある。翌朝はぼーっとして、ほどよく緊張はとける利点はあるが、眠い。
でも寝そべってからの少しの間の手持ち無沙汰感あり、この間に、少しでも何か役立つことがないかと考える効率厨、最初はNHKラジオ英会話やってみた。英語が喋れるようになるかもしれんわと、リピートアフターミーでつぶやきながらやってみた。全然効果なかった。英語の勉強が。最初でもう記憶ない。爆睡だ。
次に試したのは、勉強でなく、ヒーリング的なもの。音響効果?いろいろ面白がって試してみたが、雷、大雨、鳥の声、豪風、ジャングルとかそんな音はあまりにも落ち着かない。
落ち着かないで思い出したが、朝、仕事前にモーニングを食べに店に入った。ゆっくりネットでニュースや株情報でも見ながら、コーヒーを飲む落ち着いたひとときを…。しかし、店でのBGMがSLのしゆっぽっぽ走る音に警笛が鳴る、その後には「剣の舞」。全く気になって落ち着けない。音楽に異様に集中した。これが朝の落ち着くひとときになると、誰が思うのか。
その日は頭の中で「剣の舞」がリフレイン。顔が半笑いだったのが、バレてはなかったと思う。
全く落ち着かないのはなぜか考えてみると、よく眠れるのは規則正しい音だ。列車の走る、しゆっぽっぽではないカタコトカタコトと線路の音、そして寄せては返す波、同じリズムの繰り返しだ。
波の音にした。しかも、はやめは気ぜわしいため、最も遅いゆっくりの波の音にした。いいぞと思ったが、それも最初でもう記憶ない。頑張って調整する意味ない。
飽きてしまい、とうとうプロジェクターを買い、天井に映して配信やネットを見るという暴挙に出た。
これは逆に眠れなくなるのではないかと思ったが、やはり途中で寝落ちして、夜中に明るさで目が覚める。まずい。結局、プロジェクターが壊れたし、明るいのが良くないとやめた。
そして今、youtubeの“睡眠用”というタグのついた、AIが静かに、さあ眠気がきますよ的に一本調子で語ってくれるものを聞いているが、お気に入りは宇宙関連。リアルここまでわかった現状解説から都市伝説まで網羅する。
量子レベルから宇宙の果てとはまで、ありとあらゆるものがあり、おもしろそうだ。聴くと講義でも聞いてる気分になる。都市伝説もこうならおもしろいなと思わせてくれて楽しいし、これはこれまでよりは長く聞けた。が、結局寝落ちする。
これでは睡眠用を聞く意味がない。あ、あるのか。え?
これだけはわかった。
すぐ眠れる人間には、睡眠に効くものなどはない。 -
先日、親戚が奈良に観光に行ったと聞き、自分が行った時を思い出した。あちこち見てまわり、仏像も年代を経るごとに、洗練されている気がした。初期にも味わいがあるが、どんどん表現が巧みになってた。日本になじんでいったかな。で、大仏にしろ、他の有名な寺の仏像にしろ、どれも剥げていったままになってる。中国や他のアジアのはピカピカにぬりなおす。あちらでは当然のことなのだが、仏像の目も開かれて、こちらを見つめてる。なんか少し落ち着かなかった。笑ってもらっていいが、日本の仏像がもとの金色に塗りなおされたら、どうもありがたみが薄れる気がする。創業何百年の老舗菓舗とかにありがたみを覚えるようなものに近い。トレンドからほど遠い地味~な包装紙ほど格式高く感じるように、剥げていったままの薄汚れた感じになるほどに、歴史の重厚さを増している気がするのだ。そして、仏像は半開きの目で、焦点を合わせていないため、見るものによって表情は違ってみえ、安心してこちらから見続けていられるのだ。あくまで個人的感想だが、大抵の日本人にはわかる感想じゃなかろうか。あと、ウイーンに行ったとき、電車から降りたら、目の前に自然史博物館と、美術史博物館がどーんとあった。思わず間違い探ししそうな、左右対称のでかい建物だった。その整然たる佇まいは重厚で素晴らしかった。西洋の文化としての華麗さがあった。ハプスブルク家だからね。そして、日本の場合はシンメトリーより、非対称、そこに無いことで成立する空間とかよくある。テレビで見た桂の離宮の飛び石。不規則だから、歩くことに集中する、それが禅的なものだと言っていた。そこまで考えて作ったかどうか知らないが、不規則性をあえて作るのがすごい感性だと思った。なんでかなと思うと、すべてに自然との調和を感じる。しかし、かつて千利休が朝鮮半島の農民が日常に使っていた、ゆがみがある茶碗を、美しいと評価し、それに価値をおいた。そのとき、特に武家社会では、それをありがたくいただいたりするのだが、いきなり美しいと思えただろうか?この場合、たいていは、これは美しいのだと思い込まなくてはならない、苦行のようなものじゃなかったかと、なんとなく笑える想像をしてしまう。見方に努力がいる美?ダイヤとかピカピカ輝くものなら、だれもが素直に美しいと思うだろうに、なんでそんなところに美を求めたのか?でもまあ、それでもなんとなく、日本の文化そこかしこに溶け込み、今日まで至ってるワケで、つまりは皆にその美の感受性があったということか。剥落に、非対称に、歪みや欠けているものや、自然の中に、そして時の流れに美を見い出す。誰に教えられたワケでもないのに、なんとなくそんなんが美しいと思ってきた自分の中に、しっかりと、遥か昔からの日本人のDNAが刻まれてるのかなあ。