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男は人込みを縫うように、大股で歩いて行く。施納はその男の姿を追いながら、同じ速度で後を行く。
あのトイレットペーパーの入ったカートが、麻美が押してたものだったら。あの男の持ってきたカートと交換したとしたら。そしてあの封筒には、自分の知らないどんな秘密がこめられているのだろうか。施納は何としても、その疑問をはっきりさせたかった。
男がちらっと彼を振り向いた。それを見て、ますます疑問が確信に変わって行く。
男はさらに急ぎ足になった。通りのだんだんはずれの方に向っている。男はとうとう走りだした。施納も後を追って走った。男は急に細い路地へと方向を変え、姿が見えなくなった。施納はあわててその路地めがけて走りこんだ。
待ち構えていたかのように、男がいきなり襲いかかってきた。痛いと感じる間もなく、火花が飛び散るような衝撃で、施納の身体は飛ばされて地面に転がった。
開くまでに10秒はかかっただろう施納の目に、逃げて行く男の後ろ姿が見えた。
彼は痛みも忘れ、反射的に立ち上がると、必死で男を追いかけ、もう少しというとき、後ろから捨て身で飛びついた。
もつれあうように転がる。逃れようとする男、離すまいとする施納、2人の力の勝負は、施納が男の胸ぐらをつかんで、壁に打ち付けることで決着がついた。
「誰なんだ?」
男は顔を背けた。荒い息だけ聞こえる。
「おい!」
施納は男の胸ポケットを探ると、封筒をつかみ出した。封をしていなかった封筒から、万札がばらばらとこぼれ落ちる。その紙幣を見て、施納は男と麻美の関係を理解した。
「なんで麻美を、妻を脅してるんだ?」
男は顔を背けたまま、鼻で笑った。
「あんた、ダンナか」
観念したのか、開き直ったのか、明らかに先ほどとは態度が変わった。施納を警察の人間とでも思っていたようだった。
「なにがおかしい?」
「だから言ってやったろ?ひどい女なんだって」
男は吐き散らすようにわめいた。
「あの電話…」
施納ははっとした。
『アサミッテ、オマエガオモッテモミナイホド、トンデモナイ
ミニクイオンナナンダヨ、シッテルカ?』
あの変な電話のことだ。
「そう、あの電話さ」
「それに無言電話も、全部、おまえだったのか」
「へえ、おれ以外のやつにも配ったのか」
男は真顔になった。
「何言ってる。いったい何を脅してるんだ!」
施納は男をさらに壁に強く押し付けた。
「あんたの母親に関係すること」
それはあまりに意外な答えだった。思わず男をなぐりつけた。
「適当なこと言うな!」
「10年前に死んだんだって?事故で?」と、敵意に満ちた目つきで、ぺっと血が混じった唾を吐いた。
「それが、どうした?」
「おれは盗聴が趣味でね」男は、施納がまた殴ろうとしたので、あわてて続けた。「あんたんとこはやってないよ。おれはおばさんには興味ないから。左ポケットを探ってみろよ」
そう男が言うので、手を入れ取り出した。テープがあった。
「もらったんだよ。店で盗聴器買おうと見てたら、男がこれで脅したら、金になるからやるよってね。わざわざこれと、その家の電話番号まで教えてくれちゃって」
「そいつは誰だ?」
「さあ。そのとき会っただけ。よっぽど恨みでもあるんじゃないの?」
施納はテープをじっと見ていた。混乱していた。あまりにも予想外だったからだ。麻美が封筒で金を渡すほどの秘密を持っている。そしてそれが前島ではなく、10年前に亡くなった母親のことでだ。しかも、その秘密を知っている何者かが他にいる。恨みを持つ誰か。彼はどう対応していいものかわからなくなった。
7
麻美はまだ帰っていなかった。施納はヘッドフォンをした。彼の部屋には大きなオーディオデッキがあり。レコード、CD、MD、カセット、なんにでも対応できる。新しい機器がでるたび買いそろえることぐらいが、彼の趣味といっていい。テレビの横の棚には、音楽の買ったものや、彼が編集して、丁寧にタイトルをつけたコレクションがずらりと並んでいる。
スイッチを入れる。男から取ってきたテープだ。男には二度と自分たちに近づくなと言って、警察には突き出さなかった。もし、麻美に不利なものだったらと、このテープの内容を恐れたのだ。
テープが回りだす音がし始めた。彼は一音も逃がすまいと集中した。PR -
「前島…」
麻美を追っていて、この前島洋介にばったり会ったことで、この男と妻の麻美が、不倫しているのではないかという施納の疑惑は、ますます広がった。
前島も驚いたふうだった。すぐ横を、同じ店から出てきた若い男が通り過ぎた。前島の肩に当たったが、何も言わずさっさと歩いて行った。
「何やってんだ、こんなところで。おまえの家はこっちじゃないだろ」
施納はそう言いながら、あたりを見回した。麻美がどこかにいるのではと思ったからだ。
「ちょっとな」
前島は笑顔を見せながら、乱れてもいないネクタイの結び目を何度も触った。なにか落ち着かない様子だ。
「誰かと会う約束でも?その格好、今日は仕事じゃないだろ」
前島はスーツ姿で、相変わらずきれいな色のネクタイをしている。
「独身だから、何でも好きにできるしな」と、施納は前島の返事を待つのももどかしそうに続ける。前島が眉間にしわをよせた。
「どういう意味だ?」
「だから、何でも好きにできるってことだよ。女と何人でもつきあえる。浮気もできる。不倫とかも」
つとめて明るく言ったが、動悸が高まる。
前島は急に笑い出した。
「ま、どうとでも言ってくれ」と、もう行くよという仕草をして背を向けた。施納はその後ろ姿を見送りながら、前島が麻美と会うところを想像した。前島に妻のことを聞く勇気も、後をつけていく勇気も、もうなかった。
陽が傾きかけていた。通りの向いのビルのガラスに、夕陽にあたっている自分の姿が映っているのが見えた。普段着に、コートをひっかけた自分の姿を自虐的に笑う。
彼女が不倫していたとしても、自分と別れたいとしても仕方ないかもしれないと思った。
なぜなら、麻美に離れてほしくないのは、自分がひとりになりたくないからだ。愛していないわけではない。もちろん大事に思っている。ただ、昔と違い、いつも普通に近くにいる同志のような気分だ。そして、この変化のないゆるやかに過ぎる生活を、壊したくなかったからだ。
そのときはっとした。向いのガラスに映った彼の後ろには、逆になった文字が見えた。
施納は驚いて振り向いた。その文字に気付いたからだ。そこにはあまり目立たない古びた喫茶店があり、その看板の名前が『ランボー』だった。さっき、前島が出てきたその店だった。
ランボーが金を借りると言ってたやつがいる。そいつが何か知ってるだろう。探すといい。『ランボー』を教えてもらったのもそいつだと言っていた。
フランケンのメールを思い出す。なにかがつながったような気がした。
「前島、光起に、弟に会った?」
行きかけた前島が振り向いた。施納はどきどきしてくるのがわかった。
「ああ」
前島は予想外にあっさりと認めた。
「偶然だったんだ。この店に来ていて、声をかけた」
「え?」
「さっき、おれのあとに男が出てきただろう?今日初めて会った、おれの連れだ」
施納は意味がわからなかった。
「そういう店にいるんだ。声をかけるよ」
ようやく意味がわかってきた。
「弟が?」
「いや、勘違いしないでくれ。彼はそうじゃなかった。つまりそういう嗜好はなかったんだ。つまり、おれを覚えていて、見つけて来たんだそうだ」
「なんで?弟はおまえとは会ったことないだろう?」
「いや、あるよ。おまえのお母さんが亡くなったとき、葬式で。彼はおれの手を握って離さなかった。再会したとき、その彼だとすぐにはわからなかったけど」
「なんでおまえに」
「兄さんは元気かって聞いたよ」
「え?」それは意外な答えだった。
「ずっと会ってなかったんだって?嫌われてるからって言ってたよ。そうだったのか?」
「まさか」施納は曖昧に笑った。「弟は補導ばっかりされて、引き受けに行ったり迷惑かけられてたよ。きっとそれで、嫌われたと思ったんだろうな」
「それから時々会って、話したよ」
「どんなことを?」
「おまえのこと、元気にやってるよとか報告したり、他愛ないこと話したり。いい子だったね」
「前島、ランボーって知ってるか?」
「アルチュールランボー?それが?」
「弟に話した?」
施納はようやくたどり着いた気がした。
「ああ、この店の名前、詩人からとってるんだって話した。それと、きみは彼と似てるイメージがあるって」
「どこが似てるんだ?」
施納はその詩人をよく知らない。光起が図書館で借りていた本は一応目を通したが、もう記憶になかった。彼の興味をひく内容ではなかったからだ。
「ペットボトルを飲み干したかと思うと、いきなり、そのペットボトルを通した向こうの写真をとるんだ。なにやってるのかって聞くと、世界はいつも同じじゃない。すべてのもの、あらゆる組み合わせがあるなかの、偶然のひとつでしかない、このとった瞬間も、世の中でたったひとつのものだってね。彼は詩は書かなかっただろうけど、詩人だと思ったんだ」
「そうか」
光起はとても興味を持ったのだろう。だから本まで借りてランボーの生涯を追った。そこに自分とつながる、納得できる理由がないかと探したのだ。
「金を貸してくれと言われなかったか?」
「ああ、でもそのとき持ち合わせがなかった」
「いくら?」
「3万。1万ぐらいはあったけど」
「何のために?」
「さあ。でも、あとで持ってくると言ったけど、それならいい、時間ないからって言ってたよ。残念なことに、それが最後だった」
「そうか」
「このこと、警察に言うのか?」
施納は首を横に振った。
「すまない。ずっと言えなくて。いや、おれが犯人だと疑われるとか、そんなんじゃなくて」
「わかってるよ」
施納は頷いた。
誰にでも触れられたくない秘密はあるのだ。前島は事件にも、そして妻の麻美にも関係なかった。施納は逆にすっきりした気分だった。
ところが、家に帰ろうと横断歩道で信号が変わるのを待っていると、麻美がスーパーの前にいるのを見つけた。彼女は時計を見て時間を気にしていた。
施納はしばらく足を止め、その様子を見ていた。すると彼女はスーパーへと入って行く。いつもよく買い物をするスーパーだ。
だが、何か腑に落ちない。前島はもはや関係なかったが、何か麻美が不自然だった。施納は彼女のあとを追ってスーパーに入った。
店内にはタイムサービスの案内が聞こえていた。麻美はすでにカートに、トイレットペーパーをのせている。このあいだと同じだった。そしてすぐに彼女はカートを押してコーナーを曲がった。
彼もそろそろとコーナーに近づき、曲がった方向を見たが、もう麻美の姿はなかった。あわててあたりを見回すと、彼女はもう出口付近に、空のカートを戻していて、このあいだと同じように、何も買わずに出て行った。
施納は彼女の行動を考えあぐねた。再びあたりを見回したとき、トイレットペーパーの入ったカートに目がとまった。男がそのカートから封筒を取り、胸ポケットに入れるのを見たからだ。若いが、目つきが暗い見知らぬ男だ。男は施納が見ていることに気付き、カートをそのまま置いて歩き出した。 -
『伊勢崎雅人という名前は知らない。だが、ランボーは絶対人を
傷つけるようなやつじゃない。
直接会ってもないし、1年ぐらいのメールだけの付き合いだけど、
これだけははっきり言えるよ。
メールって直に話すのと違って、打ちながら考える時間がある。
そして直に話すのと違って、顔の表情が見えない分、ここは笑
ってもらうとことか、こう書くと向こうがどういう気持ちにな
るかとか、誤解されないかとか、もういろいろ考えるから、た
とえ1行だったとしても、そこに入れてる気持ちは強いんだ。
だからこそ、相手が見えてくることもある。
自分たちの話題はオカルト心霊現象や、不思議な体験話とか、そ
んな話ばっかだった。本当は自分はそんなもの、ちっとも信じて
ないんだ。現実にはあり得ないものがあるって思ってるのが楽だ
ったから、信じてるフリをしていた。
今、すごく後悔してるよ。ランボーと、好きな食べものとか好き
な映画、好きな音楽とか好きな人とか、もっとそんなことも話せ
ばよかったって。』
* *
「映画とか、いっしょに見たことなかったな」
施納はフランケンからのメールを思い出し、ふと麻美に言った。
彼女は玄関で靴をはきながら振り向いた。「なに、それ。無理ありすぎ」と、笑う。
麻美とは結婚して7年になるが、いっしょに何かをするということがなかった。もちろん、買い物とか彼が車を運転していっしょに出かけることもあるが、彼は彼女の用が終わるまで本屋などで過ごし、別行動だった。
子供がいれば違っただろうかと時々思う。しかし、彼女は子供が欲しいとか言ったこともない。このマンションに引っ越してきてからは、部屋数があったこともあり、2人は寝室を別々にしている。
初めの頃は、彼女が彼のベッドにやってきたりもした。が、彼は寝たふりをしてやり過ごした。そしてそのうち、互いにドアはノックしなくなった。
麻美は何も文句も言わないし、落ち着いた、変化のない毎日に施納は満足していた。結婚して7年だ、どこの夫婦もこんなものだろうと思っていた。
そう、このあいだの麻美の嘘までは。嘘をつくにはそれなりの理由がなくてはならない。
「日曜までビーズ教室?」
「趣味が違ってすいませんね。あ、予約忘れた。炊飯器のスイッチ、6時ぐらいにいれといてね」
麻美は屈託なく笑うと、扉を開けた。ごつんと音がした。外の扉の横に置いたままになっている雑誌の束に当たったのだ。
「ああもう、こんなに早く置いとくんじゃなかった。明日までは我慢しなくちゃ」
そう言いながら、扉を閉めた。
家の電話が鳴った。
「はい、施納ですが」応答がない。だが、どこかにつながってる。「もしもし?」もう一度聞く。しばらく無言の間があってプツリと切れた。
『アサミッテ、オマエガオモッテモミナイホド、トンデモナイ
ミニクイオンナナンダヨ、シッテルカ?』
そう言ったこのあいだのやつだろうか。嘘をつくにはそれなりの理由がある。施納は急いでコートを抱えた。
麻美は急いでいるようだった。信号を渡ると、ビーズ教室とは違う方へ向って歩く。コートの襟をたて、長いブーツのヒールの音をたてて大股で歩いていく。
彼女はいったい何を考えているのだろうか、その急ぐ後ろ姿を追いながら、まるで見知らぬ他人でも見るようだった。麻美が首を傾ける。腕時計を見た。信号を急いで渡った。施納も後を行こうとした。
「どうぞー」
女の子が慣れた様子で、素早くティッシュを差し出した。施納は手を少し上げて断ったが、目を離した隙に、麻美の姿を見失った。あたりを見回しながら走りだそうとしたとき、横の店から男が出てきて、足が止まった。女の子がその男にもティッシュを渡す。
「どうも」と、男は受け取った。施納はここで会うとは思いもしなかった、いや、思っていたとおりの姿を見つけた。