「施納さん」
そう呼ばれて、施納は顔を上げた。八木刑事だ。
病院に向うときに携帯に八木から連絡がはいった。弟の事件経過報告がしたいということだったから、彼は病院へ行った後、警察にやって来たのだ。
「遅くなりました。お待たせして…」
施納の手には包帯が巻かれている。が、幸いにも骨折もなく、大事には至らず済んだ。その事情を八木にも話した。
「大変なめにあいましたね」と、八木は、廊下がすぐの一角にあるソファーに座る施納の向いに腰をおろした。
「今大丈夫ですか。とっさに手を頭にもっていったのがよかった」
「ええ」
「お心当たりはありませんか?」
施納は首を横にふった。本当に誰がどうして、自分を襲うのかわからない。
「あの」と、施納は言いかけた。もちろん行きずりだとは思うが、もしかしたら弟の件と関係があるのかもしれないと思ったからだ。
が、八木が話を切り替えた。
「どうですか?もう会社の方は行かれてますか?」
「ええ、まあ。休むだけ仕事がたまる一方ですから。何しろ人員削減で人手も足りないもので」
「大変ですねえ。まあ、私らの仕事もいろいろやらなきゃいけないのは、似たようなもんですよ。あれもこれもで、終わりゃしない」
八木はそう言って、部外者のしかも被害者の肉親に不適切だったと気づいたのか、「もちろん、我々は解決するために全力をあげますが」と続けた。
そこへ中須加刑事も現れた。
「どうぞ。またコーヒーなんですが、めちゃめちゃ寒いでしょう?どうぞ暖まってください」と、コーヒーの紙コップを施納に差し出し、八木にも置くと、彼も隣に座った。施納は寒そうに紙コップを両手で挟み込んだ。包帯をした方の手にも暖かさが伝わってくる。
「施納さん、その日の午後4時すぎ頃、弟さんが公園で、男といっしょのところを見た人が見つかりましたよ」
「え?誰が?」
「自転車で公園を抜けて行こうとした人で、まあ、男女の区別くらいで男が2人いたというぐらいしか見てないんですけどね。でも時間的には、犯人と弟さんの可能性が高いですよ」
人が横を通り過ぎた。それを中須加は見やると、「となると、顔見知りということも考えられますね」と言った。
「なるほど。進展したというのは、そのことですか」
施納の問いに、中須加が八木の方を向いた。八木はため息のように息をひとつ大きく吐いた。
「仮歯が抜かれて、骨がはめられていた件ですが、実は、あの歯に入れられていた骨は、人骨でした。しかも焼かれた少し古いものです」
「人骨…」
施納は驚いたまま、紙コップを持ってうつむいている。気味が悪そうだった。
「それを歯の形に削って入れてました」と、中須加が付け加えた。
湯気の出るコーヒーの表面が揺らめいている。
「弟さんのことは、本当にお気の毒に思います。あなたにもお辛いことでしょうが」八木が言った。しかし、言葉ほどの気配はまるでない。なんというか、毎日同じことを言うような習慣のようなものが感じられた。すぐに書類をめくる。
「祖母がかわいそうですね。私は弟と会うのは、何か問題を起こして学校や警察に呼ばれた時だけで…」
八木は書類を確かめて、「光起くん、警察には5回ほど補導されてますね」と言った。施納はうなずいた。
「そうですね、それくらい…」
「そのあたりも、いろいろあたっているところです」
「施納さんも気をつけてください。もしかしたら、今回のことも、事件と関わりがあるのかもしれません。何かあればすぐ連絡してくださいね」
中須加が横から言った。
「どうか、よろしくお願いします」
施納は立ち上がると、深々とお辞儀をした。
もう8時になる。施納は家に急いだ。自宅のあるマンションの近くの交差点まで来たとき、向こう側にあるスーパーに、麻美が走りこんでいくのを見た。まだ夕食の材料も買ってないのだろうか。彼はとりあえず一緒に帰ろうと、彼女を待つことにした。
スーパーの入り口をのぞくと、麻美がトイレットペーパーの入ったカートを押して歩いて行き、コーナーを曲がり、姿が見えなくなった。5分ほど経っただろうか、麻美が空のカートを押して現れると、そのままカートを置き、戻ってきた。
施納はなぜだか声をかけそびれた。そのため、マンションを1周し、時間をずらせて戻った。
施納はエレベーターに乗ると、首をぐるぐると回し、大きくため息をついた。いつもより疲れた気分だ。目頭をつまむ。いつもならここでリセットの気分になるが、あまりにいろいろあり、もやもやした気分は変わらなかった。何かが自分に覆いかぶさってくるようだった。
3階でエレベーターを下り、廊下を歩いていくと、となりの家の前に、小さな男の子がしゃがんでいた。
施納が横を通り過ぎるとき、男の子が彼をじっと見た。また両親がケンカしているのだろう。
施納は気の毒に思い少し微笑んで見せたが、そのまま過ぎた。横に相変わらず三輪車が転がったままになっていたが、それを起こしてやる気分にもなれなかった。子どもにかまっている余裕はなかった。今日だけで、いろんなことがありすぎた。そしていろんなことが、謎だらけだった。
「ただいま」と、鍵を取り出しドアを開けた。
「おかえりなさい」
麻美の声が台所から聞こえた。
「ビーズ教室どうだった?」と、靴を脱ぐ。意識してさりげなさを装った。麻美は居間で、シチューをテーブルに置いていた。
「んー?楽しかったよ。今日はすっごく寒いからシチューにしたね」
「食べてなかったの」
「うん、今日はね」
「シチューの材料はちゃんとそろってた?」
さきほどのスーパーのことを思い返した。買い忘れていた材料を探しにいって、なかったのかもしれないと思ったからだ。
「そろってたけど。なあに?なんかめずらしい。英二がそんなこと聞くなんて」
「いや、別に」と、あわててコートを脱いだ。
「どうしたの?」
笑顔で振り向いた麻美の表情が変わった。
「どうしたの?それ」と、施納の手の包帯を見て驚いた声をあげた。
「襲われたんだ」
「えっ!だれに?」
麻美のあまりのうろたえ方が、かえって彼の不安を大きくした。
「わからない。暗かったから…」
麻美はショックが大きすぎたように、呆然と包帯を見ている。
「もしかしたら、弟の事件と関係があるのかもしれない」
「どうして」ぼんやりしたまま、麻美が言う。
「どうしてって…おれにわかるわけないじゃない」
施納の不安はどんどん広がっていく。
ぼんやりしたままの麻美がいる。湯気のでる暖かいシチュー、テーブルの中央には小さな花が飾られて。目の前には幸せそうな生活の光景があるのが、すごく違和感のあるものに映った。
「ああ、冷めるよ。はやく食べよう」
彼はそんな自分の心を察せられないように、つとめて明るく言った。
そう呼ばれて、施納は顔を上げた。八木刑事だ。
病院に向うときに携帯に八木から連絡がはいった。弟の事件経過報告がしたいということだったから、彼は病院へ行った後、警察にやって来たのだ。
「遅くなりました。お待たせして…」
施納の手には包帯が巻かれている。が、幸いにも骨折もなく、大事には至らず済んだ。その事情を八木にも話した。
「大変なめにあいましたね」と、八木は、廊下がすぐの一角にあるソファーに座る施納の向いに腰をおろした。
「今大丈夫ですか。とっさに手を頭にもっていったのがよかった」
「ええ」
「お心当たりはありませんか?」
施納は首を横にふった。本当に誰がどうして、自分を襲うのかわからない。
「あの」と、施納は言いかけた。もちろん行きずりだとは思うが、もしかしたら弟の件と関係があるのかもしれないと思ったからだ。
が、八木が話を切り替えた。
「どうですか?もう会社の方は行かれてますか?」
「ええ、まあ。休むだけ仕事がたまる一方ですから。何しろ人員削減で人手も足りないもので」
「大変ですねえ。まあ、私らの仕事もいろいろやらなきゃいけないのは、似たようなもんですよ。あれもこれもで、終わりゃしない」
八木はそう言って、部外者のしかも被害者の肉親に不適切だったと気づいたのか、「もちろん、我々は解決するために全力をあげますが」と続けた。
そこへ中須加刑事も現れた。
「どうぞ。またコーヒーなんですが、めちゃめちゃ寒いでしょう?どうぞ暖まってください」と、コーヒーの紙コップを施納に差し出し、八木にも置くと、彼も隣に座った。施納は寒そうに紙コップを両手で挟み込んだ。包帯をした方の手にも暖かさが伝わってくる。
「施納さん、その日の午後4時すぎ頃、弟さんが公園で、男といっしょのところを見た人が見つかりましたよ」
「え?誰が?」
「自転車で公園を抜けて行こうとした人で、まあ、男女の区別くらいで男が2人いたというぐらいしか見てないんですけどね。でも時間的には、犯人と弟さんの可能性が高いですよ」
人が横を通り過ぎた。それを中須加は見やると、「となると、顔見知りということも考えられますね」と言った。
「なるほど。進展したというのは、そのことですか」
施納の問いに、中須加が八木の方を向いた。八木はため息のように息をひとつ大きく吐いた。
「仮歯が抜かれて、骨がはめられていた件ですが、実は、あの歯に入れられていた骨は、人骨でした。しかも焼かれた少し古いものです」
「人骨…」
施納は驚いたまま、紙コップを持ってうつむいている。気味が悪そうだった。
「それを歯の形に削って入れてました」と、中須加が付け加えた。
湯気の出るコーヒーの表面が揺らめいている。
「弟さんのことは、本当にお気の毒に思います。あなたにもお辛いことでしょうが」八木が言った。しかし、言葉ほどの気配はまるでない。なんというか、毎日同じことを言うような習慣のようなものが感じられた。すぐに書類をめくる。
「祖母がかわいそうですね。私は弟と会うのは、何か問題を起こして学校や警察に呼ばれた時だけで…」
八木は書類を確かめて、「光起くん、警察には5回ほど補導されてますね」と言った。施納はうなずいた。
「そうですね、それくらい…」
「そのあたりも、いろいろあたっているところです」
「施納さんも気をつけてください。もしかしたら、今回のことも、事件と関わりがあるのかもしれません。何かあればすぐ連絡してくださいね」
中須加が横から言った。
「どうか、よろしくお願いします」
施納は立ち上がると、深々とお辞儀をした。
もう8時になる。施納は家に急いだ。自宅のあるマンションの近くの交差点まで来たとき、向こう側にあるスーパーに、麻美が走りこんでいくのを見た。まだ夕食の材料も買ってないのだろうか。彼はとりあえず一緒に帰ろうと、彼女を待つことにした。
スーパーの入り口をのぞくと、麻美がトイレットペーパーの入ったカートを押して歩いて行き、コーナーを曲がり、姿が見えなくなった。5分ほど経っただろうか、麻美が空のカートを押して現れると、そのままカートを置き、戻ってきた。
施納はなぜだか声をかけそびれた。そのため、マンションを1周し、時間をずらせて戻った。
施納はエレベーターに乗ると、首をぐるぐると回し、大きくため息をついた。いつもより疲れた気分だ。目頭をつまむ。いつもならここでリセットの気分になるが、あまりにいろいろあり、もやもやした気分は変わらなかった。何かが自分に覆いかぶさってくるようだった。
3階でエレベーターを下り、廊下を歩いていくと、となりの家の前に、小さな男の子がしゃがんでいた。
施納が横を通り過ぎるとき、男の子が彼をじっと見た。また両親がケンカしているのだろう。
施納は気の毒に思い少し微笑んで見せたが、そのまま過ぎた。横に相変わらず三輪車が転がったままになっていたが、それを起こしてやる気分にもなれなかった。子どもにかまっている余裕はなかった。今日だけで、いろんなことがありすぎた。そしていろんなことが、謎だらけだった。
「ただいま」と、鍵を取り出しドアを開けた。
「おかえりなさい」
麻美の声が台所から聞こえた。
「ビーズ教室どうだった?」と、靴を脱ぐ。意識してさりげなさを装った。麻美は居間で、シチューをテーブルに置いていた。
「んー?楽しかったよ。今日はすっごく寒いからシチューにしたね」
「食べてなかったの」
「うん、今日はね」
「シチューの材料はちゃんとそろってた?」
さきほどのスーパーのことを思い返した。買い忘れていた材料を探しにいって、なかったのかもしれないと思ったからだ。
「そろってたけど。なあに?なんかめずらしい。英二がそんなこと聞くなんて」
「いや、別に」と、あわててコートを脱いだ。
「どうしたの?」
笑顔で振り向いた麻美の表情が変わった。
「どうしたの?それ」と、施納の手の包帯を見て驚いた声をあげた。
「襲われたんだ」
「えっ!だれに?」
麻美のあまりのうろたえ方が、かえって彼の不安を大きくした。
「わからない。暗かったから…」
麻美はショックが大きすぎたように、呆然と包帯を見ている。
「もしかしたら、弟の事件と関係があるのかもしれない」
「どうして」ぼんやりしたまま、麻美が言う。
「どうしてって…おれにわかるわけないじゃない」
施納の不安はどんどん広がっていく。
ぼんやりしたままの麻美がいる。湯気のでる暖かいシチュー、テーブルの中央には小さな花が飾られて。目の前には幸せそうな生活の光景があるのが、すごく違和感のあるものに映った。
「ああ、冷めるよ。はやく食べよう」
彼はそんな自分の心を察せられないように、つとめて明るく言った。
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