しんとした夜更け、ふいにその音を聞く。それははるか彼方から、ゆっくりとおれのもとに戻って来る。
おれは10歳の時、新しい家に引っ越した。ちょうど母親が入院し父親と2人の生活で、寝坊したり、夕食がありえなかったり、ゴミを出し忘れたり、部屋は散らかったままだったりした。学校では、教室の壁の忘れ物棒グラフが伸びるし、父親が洗濯して吊るしたままにしている服を取って着ていくと、臭いとみんなに逃げられた。時々半乾きで臭ったからだ。
その頃熱心だったのはなわとびで、家に帰ると暗くなるまで二重跳び、三重跳びや、跳びながら庭を走ったりしていた。作りかけのブロック塀がまだおれのひざの高さぐらいのときだった。隣には古びたトタン屋根の家があり、首輪もしてない小さな犬がいた。くるくるパーマみたいな毛が汚れて固まったようになっている。犬は目もろくに見えず、耳も聞こえてなかった。歯もない。ジャコをやると頭を傾けて懸命に噛むが、ぽろっと落とし、またひろって噛む。それにチンチンがだらんと出てる。「おいチン、チンチン」と勝手に名前をつけて笑ってると、ずずっずずっという音がした。見ると、深々とお辞儀をしてるような格好のばあさんが、足で銀色のたらいを蹴るように押しながら、少しずつこっちへくる。一瞬ひるんだ。よれっとした着物を着て、背中が90度よりも曲がったその姿が、妖怪ばばあに見えたからだ。
そのばばあはすごい低いところに張ってあるロープに、たらいから取った布きれをよいしょとかけていく。雫がぼったぼた落ちている。ずるっと布きれが地面に落ちた。えぇ〜。ばばあは拾おうともたもたしている。ああ気持ちワル。「もっと絞れよ」おれがつぶやくと、ばばあは上目使いにこっちを見た。耳はいいらしい。引っ込んだしわしわの口をもぐもぐさせている。「絞ったよ」うそこけ。ばばあはまた、布きれをよいしょとかけた。まだ頭を傾けジャコを噛むチンコ犬、足でたらいを押しながら戻って行く妖怪ばばあはすごいインパクトがあった。
隣の家は夫婦とOLの娘もいたが、日中はばばあひとりだった。朝、そこの娘が綺麗な格好で出かけるのを見た。ばばあの息子は事業に失敗して、今はどこかに勤めている。奥さんは自分の店を持ってて忙しい。いちばん先に帰ってくるばばあの息子が晩ご飯を作っていると、入院している母親から聞いた。父親には聞かなかった。いつも機嫌が悪かったから、夕食時は最小限の話、給食費袋とか学校のお知らせとかは目につくところに置き、父親が忘れていたらしばらく待った。だからおれの忘れ物グラフは伸びゆくだけだった。学校へ行くと、自分の机の中のものが全部ゴミ箱に放り込まれていた日もあった。おれはそれを拾い、また机の中へ入れる。小さな笑いがさざ波のように聞こえた。
その日もばばあが、足でたらいを押しながらやって来る。「ねえばばあ、年いくつ?」おれは作りかけの塀の土を蹴りながら聞いた。おれは身体を伸ばし、興味まるだしだ。チンは頭を傾けて懸命にジャコを噛んでいる。「ぼうず、いくつだ?」「10歳」「ぼうずよりは上だろよ」下でどうする。「ここにずーっと住んでんの?」「ぼうずのとこよりはな」百年住んでるだろ。「ぼくんちは新品でおっきいよ。ばばあんとこよりはな」「昔住んでた家は大きかったよ。ぼうずのとこよりはな」と、ばばあも言い返す。ムカツクばばあだ。「へー、どのくらい?」ほとんど棒読みのおれ。
ばばあが子供のとき住んでた家は、門から玄関まで歩いたら30分ぐらいかかった。ばばあは門から玄関まで飛んでいきたいと思いつき、お小遣いで気球を買い、技術者を雇い、飛ばし方を習った。そうして気球に乗りこんだ。少しずつ地面が遠ざかり、見える景色が違っていった。遠くに見える玄関が木に隠れた。
って、ムリしすぎだろ。かえって時間かかる。「なに、時間じゃないよ」と、ばばあはニタリとした。ばばあとはそれからも塀ごしに話した。おれがからかったら、いつも変な昔話とやらをした。
ある朝、部屋に吊ってあった服がまた臭かった。絶対学校に着ていきたくなかった。階段をかけあがり、タンスの中をごそごそ探す。服を見つけたが、去年のでぴちぴちになっていた。「なにやってるんだ、遅れるぞ」と、階下で父親が言う。カチンときた。「まったく、ちゃんとできないなあ。何度言ったらわかるんだ」父親がぶつぶつ言っている。「鍵、忘れるなよ」ドアが閉まる音がした。だんだん腹がたってきた。「ちゃんとできないのはどっちだ、ちゃんと洗えよ!」おれは服を床に力いっぱい投げた。「なんで入院したんだ!」そんなムチャな。服を踏みつける。怒りで鼻息が荒くなり唇が震えた。わかっていた。だけど、どうしようもなかったのだ。
外は快晴だった。おれは自分がやってやると、洗濯物を母親の見よう見まねで外に干した。歪んで不格好だったが、それが風でひらひらするのを見ると満足し、怒りもようやく治まった。そういえば、ばばあの洗濯物、ぼったぼただったな。あれじゃなかなか乾かない、おれの服の百倍ぐらい臭いんじゃないか。そろそろと塀をまたいで隣の敷地へ入った。チンはおれに気づかず、玄関横の犬小屋でうずくまっている。汚れた水飲みには落ち葉が浮いていた。塀と家の隙間から音がするので、細い通路を通り家の裏側へ行く。日がささない小さな場所で、ばばあが布きれをたらいに打ちつけていた。
ばばあは昔、裏庭で遊んでいて迷子になった。球場が何十個も入るくらい広大な森の裏庭で何日もさまよった。もうだめだと思ったとき、突然視界が開けた。たくさんの家、たくさんの人たち、牛や馬、畑や田んぼ、自分の家の裏庭にひとつの村、知らない世界があった。ひゃっほう!
「なんでひゃっほう」
おれは思わず口にした。「いょっほうでもいい」どうでもいいのか。ばばあは布きれをたらいに打ちつけて押す。「ばばあ、お湯は?」ばばあの手は赤くがさがさしていた。「火を使うのは止められてるからね」「洗濯機も?」「そうだなあ」ばばあがたらいを足で押して行く。後ろから見ると、ばばあの着物の襟は薄汚れていた。「ちぇ、しょうがない」おれはばばあの洗った布きれをつまみ上げ、ちょっと高いところにあるロープにかけようとした。他の洗濯物が干されていて、もう乾きそうだった。「そこはだめだ」と、ばばあが言った。「なんで」「おしめとか私のは汚いからってな」なんか腹がたった。「なんでだよ。なんか悪いことしたか?」ゴミ箱の教科書を思いだす。「文句言ってやれよ」人のことは言えるおれ。するとばばあがニタリとした。「ぼうず、なんでも楽しんだもん勝ちだ」
ばばあがおれの心の中をのぞいたようでどきっとした。ばばあはおしめ洗って、しわくちゃで、汚くて、空想や作り話しか楽しみがないのに、おれはそんなばばあよりもずっと楽しくなさそうだった。
その後もおれは時々学校をさぼっていたが、雨がしばらく続いていた寒い日、ドアがどんどんと叩かれた。ばばあだった。「なんか火がつかないから、見てくれないかね」火は使ったらいけないんじゃなかったのか?おれが隣へ行ってみると、チンが雨に濡れふるえながら吠えている。玄関はばばあが出た分開いていて、ガスの臭いがした。あわてて口を手で押さえながら家へ入ると、台所ではガスコンロがシューシュー音をたてていた。スイッチを切り、あちこちの窓を開けると、そのあたりにあった座布団でばたばたあおった。コンロの下には踏み台が置かれ、横には布きれの入ったたらいがあった。そのとき、「どうしたの!」と、回覧板を持った近所の人が飛び込んできた。
その一件はすぐにばばあの家の人や、周囲に知られることになった。夜、隣からすごい怒鳴り声が聞こえた。ばばあが悪いんじゃない、雨でおしめが乾かなかったからだ、家族が洗ってあげなかったからだ、そう思ったが何も言わなかった。おれが学校に行ってなかったことがバレて、父親を怒らせたからだ。
ばばあはその冬、風呂でぽっくり死んだ。風呂に入るのがいつも最後だから、夜中まで気づかれなかった。ばばあも自分が死ぬなんて気づかなかっただろうな。棺桶で寝かせるときは横向きだよな、正方形がちょうどいいか。おれは風呂に入りながら、久しぶりにばばあのことを考えた。塀がおれの背丈を超え、母親が退院し、友だちができ、なわとびをすることも減り、自然とばばあと話すこともなくなっていたからだ。写真は上目使いだろうな。何人くらい来るんだろ、おれだけだったら笑えるな。おれは自分が葬式に行く気マンマンでいることがちょっとおかしかった。ばばあが話してきたら、あの変な話、聞いてやったのに。頭にシャンプーを垂らしながら、話したことを思い出す。ばばあのくせに、あそこまでよく考えたもんだよな。シャンプーの泡が顔にだらだら流れてくる。けどばばあ、ほんとのとこ、楽しいことなんてあったのか?鼻がつーんとした。ちぇ、どこでも行っちまえ、もうどこへでも行ける。おれはぎゅっと目を閉じた。頭をごしごし洗いながらアニメの主題歌を大声で歌った。風呂場は声が響いて、自分がすごくうまいように思えた。
チンもばばあが死んで1年ぐらい後に、家の前で轢かれて死んだ。車に気づかなかったんだ。やがて隣は引っ越してトタン屋根の家は取り壊され、そこには新しい家が建った。
もうずいぶん昔の話だ。ずずっずずっ。忘れた頃に戻って来るあの音。ばばあは「楽しんでるかい?」と聞く。そのたびにおれはいつも、どうなんだろうと迷う。「ああ、楽しんでるよ」いつかそう言えるようにと思うんだ。目を閉じる。ばばあとチンは気球に乗り、お屋敷の門から浮き上がり、玄関を過ぎ、裏庭の森を過ぎ飛んで行く。そして、ずっとずっと今も飛び続けている。
おれは10歳の時、新しい家に引っ越した。ちょうど母親が入院し父親と2人の生活で、寝坊したり、夕食がありえなかったり、ゴミを出し忘れたり、部屋は散らかったままだったりした。学校では、教室の壁の忘れ物棒グラフが伸びるし、父親が洗濯して吊るしたままにしている服を取って着ていくと、臭いとみんなに逃げられた。時々半乾きで臭ったからだ。
その頃熱心だったのはなわとびで、家に帰ると暗くなるまで二重跳び、三重跳びや、跳びながら庭を走ったりしていた。作りかけのブロック塀がまだおれのひざの高さぐらいのときだった。隣には古びたトタン屋根の家があり、首輪もしてない小さな犬がいた。くるくるパーマみたいな毛が汚れて固まったようになっている。犬は目もろくに見えず、耳も聞こえてなかった。歯もない。ジャコをやると頭を傾けて懸命に噛むが、ぽろっと落とし、またひろって噛む。それにチンチンがだらんと出てる。「おいチン、チンチン」と勝手に名前をつけて笑ってると、ずずっずずっという音がした。見ると、深々とお辞儀をしてるような格好のばあさんが、足で銀色のたらいを蹴るように押しながら、少しずつこっちへくる。一瞬ひるんだ。よれっとした着物を着て、背中が90度よりも曲がったその姿が、妖怪ばばあに見えたからだ。
そのばばあはすごい低いところに張ってあるロープに、たらいから取った布きれをよいしょとかけていく。雫がぼったぼた落ちている。ずるっと布きれが地面に落ちた。えぇ〜。ばばあは拾おうともたもたしている。ああ気持ちワル。「もっと絞れよ」おれがつぶやくと、ばばあは上目使いにこっちを見た。耳はいいらしい。引っ込んだしわしわの口をもぐもぐさせている。「絞ったよ」うそこけ。ばばあはまた、布きれをよいしょとかけた。まだ頭を傾けジャコを噛むチンコ犬、足でたらいを押しながら戻って行く妖怪ばばあはすごいインパクトがあった。
隣の家は夫婦とOLの娘もいたが、日中はばばあひとりだった。朝、そこの娘が綺麗な格好で出かけるのを見た。ばばあの息子は事業に失敗して、今はどこかに勤めている。奥さんは自分の店を持ってて忙しい。いちばん先に帰ってくるばばあの息子が晩ご飯を作っていると、入院している母親から聞いた。父親には聞かなかった。いつも機嫌が悪かったから、夕食時は最小限の話、給食費袋とか学校のお知らせとかは目につくところに置き、父親が忘れていたらしばらく待った。だからおれの忘れ物グラフは伸びゆくだけだった。学校へ行くと、自分の机の中のものが全部ゴミ箱に放り込まれていた日もあった。おれはそれを拾い、また机の中へ入れる。小さな笑いがさざ波のように聞こえた。
その日もばばあが、足でたらいを押しながらやって来る。「ねえばばあ、年いくつ?」おれは作りかけの塀の土を蹴りながら聞いた。おれは身体を伸ばし、興味まるだしだ。チンは頭を傾けて懸命にジャコを噛んでいる。「ぼうず、いくつだ?」「10歳」「ぼうずよりは上だろよ」下でどうする。「ここにずーっと住んでんの?」「ぼうずのとこよりはな」百年住んでるだろ。「ぼくんちは新品でおっきいよ。ばばあんとこよりはな」「昔住んでた家は大きかったよ。ぼうずのとこよりはな」と、ばばあも言い返す。ムカツクばばあだ。「へー、どのくらい?」ほとんど棒読みのおれ。
ばばあが子供のとき住んでた家は、門から玄関まで歩いたら30分ぐらいかかった。ばばあは門から玄関まで飛んでいきたいと思いつき、お小遣いで気球を買い、技術者を雇い、飛ばし方を習った。そうして気球に乗りこんだ。少しずつ地面が遠ざかり、見える景色が違っていった。遠くに見える玄関が木に隠れた。
って、ムリしすぎだろ。かえって時間かかる。「なに、時間じゃないよ」と、ばばあはニタリとした。ばばあとはそれからも塀ごしに話した。おれがからかったら、いつも変な昔話とやらをした。
ある朝、部屋に吊ってあった服がまた臭かった。絶対学校に着ていきたくなかった。階段をかけあがり、タンスの中をごそごそ探す。服を見つけたが、去年のでぴちぴちになっていた。「なにやってるんだ、遅れるぞ」と、階下で父親が言う。カチンときた。「まったく、ちゃんとできないなあ。何度言ったらわかるんだ」父親がぶつぶつ言っている。「鍵、忘れるなよ」ドアが閉まる音がした。だんだん腹がたってきた。「ちゃんとできないのはどっちだ、ちゃんと洗えよ!」おれは服を床に力いっぱい投げた。「なんで入院したんだ!」そんなムチャな。服を踏みつける。怒りで鼻息が荒くなり唇が震えた。わかっていた。だけど、どうしようもなかったのだ。
外は快晴だった。おれは自分がやってやると、洗濯物を母親の見よう見まねで外に干した。歪んで不格好だったが、それが風でひらひらするのを見ると満足し、怒りもようやく治まった。そういえば、ばばあの洗濯物、ぼったぼただったな。あれじゃなかなか乾かない、おれの服の百倍ぐらい臭いんじゃないか。そろそろと塀をまたいで隣の敷地へ入った。チンはおれに気づかず、玄関横の犬小屋でうずくまっている。汚れた水飲みには落ち葉が浮いていた。塀と家の隙間から音がするので、細い通路を通り家の裏側へ行く。日がささない小さな場所で、ばばあが布きれをたらいに打ちつけていた。
ばばあは昔、裏庭で遊んでいて迷子になった。球場が何十個も入るくらい広大な森の裏庭で何日もさまよった。もうだめだと思ったとき、突然視界が開けた。たくさんの家、たくさんの人たち、牛や馬、畑や田んぼ、自分の家の裏庭にひとつの村、知らない世界があった。ひゃっほう!
「なんでひゃっほう」
おれは思わず口にした。「いょっほうでもいい」どうでもいいのか。ばばあは布きれをたらいに打ちつけて押す。「ばばあ、お湯は?」ばばあの手は赤くがさがさしていた。「火を使うのは止められてるからね」「洗濯機も?」「そうだなあ」ばばあがたらいを足で押して行く。後ろから見ると、ばばあの着物の襟は薄汚れていた。「ちぇ、しょうがない」おれはばばあの洗った布きれをつまみ上げ、ちょっと高いところにあるロープにかけようとした。他の洗濯物が干されていて、もう乾きそうだった。「そこはだめだ」と、ばばあが言った。「なんで」「おしめとか私のは汚いからってな」なんか腹がたった。「なんでだよ。なんか悪いことしたか?」ゴミ箱の教科書を思いだす。「文句言ってやれよ」人のことは言えるおれ。するとばばあがニタリとした。「ぼうず、なんでも楽しんだもん勝ちだ」
ばばあがおれの心の中をのぞいたようでどきっとした。ばばあはおしめ洗って、しわくちゃで、汚くて、空想や作り話しか楽しみがないのに、おれはそんなばばあよりもずっと楽しくなさそうだった。
その後もおれは時々学校をさぼっていたが、雨がしばらく続いていた寒い日、ドアがどんどんと叩かれた。ばばあだった。「なんか火がつかないから、見てくれないかね」火は使ったらいけないんじゃなかったのか?おれが隣へ行ってみると、チンが雨に濡れふるえながら吠えている。玄関はばばあが出た分開いていて、ガスの臭いがした。あわてて口を手で押さえながら家へ入ると、台所ではガスコンロがシューシュー音をたてていた。スイッチを切り、あちこちの窓を開けると、そのあたりにあった座布団でばたばたあおった。コンロの下には踏み台が置かれ、横には布きれの入ったたらいがあった。そのとき、「どうしたの!」と、回覧板を持った近所の人が飛び込んできた。
その一件はすぐにばばあの家の人や、周囲に知られることになった。夜、隣からすごい怒鳴り声が聞こえた。ばばあが悪いんじゃない、雨でおしめが乾かなかったからだ、家族が洗ってあげなかったからだ、そう思ったが何も言わなかった。おれが学校に行ってなかったことがバレて、父親を怒らせたからだ。
ばばあはその冬、風呂でぽっくり死んだ。風呂に入るのがいつも最後だから、夜中まで気づかれなかった。ばばあも自分が死ぬなんて気づかなかっただろうな。棺桶で寝かせるときは横向きだよな、正方形がちょうどいいか。おれは風呂に入りながら、久しぶりにばばあのことを考えた。塀がおれの背丈を超え、母親が退院し、友だちができ、なわとびをすることも減り、自然とばばあと話すこともなくなっていたからだ。写真は上目使いだろうな。何人くらい来るんだろ、おれだけだったら笑えるな。おれは自分が葬式に行く気マンマンでいることがちょっとおかしかった。ばばあが話してきたら、あの変な話、聞いてやったのに。頭にシャンプーを垂らしながら、話したことを思い出す。ばばあのくせに、あそこまでよく考えたもんだよな。シャンプーの泡が顔にだらだら流れてくる。けどばばあ、ほんとのとこ、楽しいことなんてあったのか?鼻がつーんとした。ちぇ、どこでも行っちまえ、もうどこへでも行ける。おれはぎゅっと目を閉じた。頭をごしごし洗いながらアニメの主題歌を大声で歌った。風呂場は声が響いて、自分がすごくうまいように思えた。
チンもばばあが死んで1年ぐらい後に、家の前で轢かれて死んだ。車に気づかなかったんだ。やがて隣は引っ越してトタン屋根の家は取り壊され、そこには新しい家が建った。
もうずいぶん昔の話だ。ずずっずずっ。忘れた頃に戻って来るあの音。ばばあは「楽しんでるかい?」と聞く。そのたびにおれはいつも、どうなんだろうと迷う。「ああ、楽しんでるよ」いつかそう言えるようにと思うんだ。目を閉じる。ばばあとチンは気球に乗り、お屋敷の門から浮き上がり、玄関を過ぎ、裏庭の森を過ぎ飛んで行く。そして、ずっとずっと今も飛び続けている。
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