施納は警察の廊下を歩く。人が行き交っている。
彼の脳裏には今でも鮮やかに蘇る記憶があった。
「いらっしゃい、ねえ、はやく。こっちへ。英二」
若かった母の奈津実が下着姿で寝そべったまま、彼を手招きして、微笑む姿は艶かしかった。いつもの習慣。
13歳の施納は言われるままに従った。背中に奈津実の手がまわされる。やさしく彼の背中をさするように、彼の服を脱がし始めた。
「やめて」彼は小さな声で抵抗した。「やめて、お母さん。やめて…」
施納が忘れようとしても忘れられない彼女。何年間もの2人の関係。思い出すたびに苦しくなる。母のことは好きだった。そして、憎かった。
そのとき、施納の顔が一点を凝視して固まった。裸足で、あの死んだ日の、夏の白いワンピースを着た若いままの母親の奈津実が、彼を見つめて廊下を向こうからゆっくり歩いてくる。向こう側を通り過ぎる人が、手前の奈津実の白い服から透けて見えた。
彼は数秒、本当に身体が動かなかった。恐怖がようやく身体に逃げろと命じた。急ぎ足で角を曲がる。
ちょうどエレベーターが開いていて、人が乗り降りしているところだった。そこへと駆け込んだ。
そしてドアの方を向いて立つと、あわててボタンを押す。目を上げると、奈津実が角を曲がり、こちらに向って歩いてくる。行き交う人は誰も注意を向けない。もちろんだ。死んだ人間は見えないものだ。
施納は必死になってボタンを押した。奈津実は施納に微笑んで、どんどん近づいてくる。
施納の顔はひきつったままだ。やめてやめてやめてやめてと、ずっと心の中で言い続ける。まるで昔のあのときのように、子供のようにおびえた。
彼女がたどり着く寸前にエレベーターが閉まり、ようやく動く音がした。目を閉じて息を吐く。どっと疲れを感じ、首をぐるぐると回した。
幻影なんだ、気にすることはない。すべてはうまくいったのだと、天井を見る。照明が明るい。ここのエレベーターは、マンションのものと違って、かたかたと揺れたり音がしたりしない。静かだった。
施納はもう一度大きく深呼吸した。視線を下ろしたとき、エレベーターに乗っている人たちがじっと彼を見ていることに気付いた。施納は息が止まる思いだった。その人たち全員が、彼の能力によって見えている人たちだとわかったからだ。
『もう一度やりなおしたい?』
施納は耳元で、夢で聞いたのと同じ声を聞いた。そしてエレベーターの扉からは、母の細く白い両手が、施納を求めるようににゅっと伸びてきた。
9
真城光起はブランコに座り、足をぶらぶらさせている。
「ねえ、どうして詩人が武器商人になったんだろ?なんでアフリカに行きたかったんかな?」
陽が傾きかけた午後4時すぎの公園は、閑散としていた。
「おれ、そのアフリカの、熱さで遠くがゆらゆらして見えるような砂漠をね、ランボーみたいに歩いてるのを、想像することがある。ときどき、すごくそこへ行ってみたくなるんだ」
鳩がいっせいに飛び立った。彼は顔をあげて、その鳩の行き先を目で追う。どんよりした空から雪がちらほら降ってくるのを見て、微笑んだ。
「見渡す限り砂、風、空、太陽だけ。そんなところでひとりで、どう思ったかなあって。他の何にも関係なく、影響もなく、誰もいなくて、ただ自分がそこに存在するだけなんだ。そしたらきっとさ、この世界にたったひとりの自分という人間がいる、いてもいいって思えそうじゃない?」
施納は、見上げている光起の横顔をじっと見ていた。雪がますます降ってくる。
「そろそろ行こうか」
施納はそう言って、微笑んだ。
<おわり>
彼の脳裏には今でも鮮やかに蘇る記憶があった。
「いらっしゃい、ねえ、はやく。こっちへ。英二」
若かった母の奈津実が下着姿で寝そべったまま、彼を手招きして、微笑む姿は艶かしかった。いつもの習慣。
13歳の施納は言われるままに従った。背中に奈津実の手がまわされる。やさしく彼の背中をさするように、彼の服を脱がし始めた。
「やめて」彼は小さな声で抵抗した。「やめて、お母さん。やめて…」
施納が忘れようとしても忘れられない彼女。何年間もの2人の関係。思い出すたびに苦しくなる。母のことは好きだった。そして、憎かった。
そのとき、施納の顔が一点を凝視して固まった。裸足で、あの死んだ日の、夏の白いワンピースを着た若いままの母親の奈津実が、彼を見つめて廊下を向こうからゆっくり歩いてくる。向こう側を通り過ぎる人が、手前の奈津実の白い服から透けて見えた。
彼は数秒、本当に身体が動かなかった。恐怖がようやく身体に逃げろと命じた。急ぎ足で角を曲がる。
ちょうどエレベーターが開いていて、人が乗り降りしているところだった。そこへと駆け込んだ。
そしてドアの方を向いて立つと、あわててボタンを押す。目を上げると、奈津実が角を曲がり、こちらに向って歩いてくる。行き交う人は誰も注意を向けない。もちろんだ。死んだ人間は見えないものだ。
施納は必死になってボタンを押した。奈津実は施納に微笑んで、どんどん近づいてくる。
施納の顔はひきつったままだ。やめてやめてやめてやめてと、ずっと心の中で言い続ける。まるで昔のあのときのように、子供のようにおびえた。
彼女がたどり着く寸前にエレベーターが閉まり、ようやく動く音がした。目を閉じて息を吐く。どっと疲れを感じ、首をぐるぐると回した。
幻影なんだ、気にすることはない。すべてはうまくいったのだと、天井を見る。照明が明るい。ここのエレベーターは、マンションのものと違って、かたかたと揺れたり音がしたりしない。静かだった。
施納はもう一度大きく深呼吸した。視線を下ろしたとき、エレベーターに乗っている人たちがじっと彼を見ていることに気付いた。施納は息が止まる思いだった。その人たち全員が、彼の能力によって見えている人たちだとわかったからだ。
『もう一度やりなおしたい?』
施納は耳元で、夢で聞いたのと同じ声を聞いた。そしてエレベーターの扉からは、母の細く白い両手が、施納を求めるようににゅっと伸びてきた。
9
真城光起はブランコに座り、足をぶらぶらさせている。
「ねえ、どうして詩人が武器商人になったんだろ?なんでアフリカに行きたかったんかな?」
陽が傾きかけた午後4時すぎの公園は、閑散としていた。
「おれ、そのアフリカの、熱さで遠くがゆらゆらして見えるような砂漠をね、ランボーみたいに歩いてるのを、想像することがある。ときどき、すごくそこへ行ってみたくなるんだ」
鳩がいっせいに飛び立った。彼は顔をあげて、その鳩の行き先を目で追う。どんよりした空から雪がちらほら降ってくるのを見て、微笑んだ。
「見渡す限り砂、風、空、太陽だけ。そんなところでひとりで、どう思ったかなあって。他の何にも関係なく、影響もなく、誰もいなくて、ただ自分がそこに存在するだけなんだ。そしたらきっとさ、この世界にたったひとりの自分という人間がいる、いてもいいって思えそうじゃない?」
施納は、見上げている光起の横顔をじっと見ていた。雪がますます降ってくる。
「そろそろ行こうか」
施納はそう言って、微笑んだ。
<おわり>
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コメント
1. 読了♪〜
あれこれ感想を言いたいんですけど、ここで言うとネタばれになっちゃいそうなので控えます。
先日、市民登録して、ポチっと、してきました。(その次いでに自分の作品もwebコンテンツに登録しちゃいました…;)
これからは『ブレインハッカー』を読みます!
(『アフリカ〜』もそうだけど、タイトル名、カッコいいよね!)
2. (ー〜ー)←したり顔
私はおかげさまで、予想以上すぎる(だってねえ・・・怖くないんだ、コレが・苦笑)ポイントいたただき、本当に嬉しく、また書いていくエネルギーをいただいてもいると思います。投票までしていただいて、どうもありがとうございまする!(^o^)
「アフリカの」読んでいただき感謝です。この展開は卑怯かもねえ。都合よすぎ?(笑)もっと全体的に内面を表現(具体的な内面描写ということじゃなくです)できたらよかったなあと思ってます。
古反故さんの「跼天蹐地の薔薇」こそカッコイイですよ〜!最初、カンジ読めなかった私が言うか、ですけど(笑)