雪がちらほら降っている。
電話ボックスにいる少年も、雪を見ている。だが、彼は雪に関心はなく、ポケットの中をさぐっていた。そして小銭を取り出すと、電話をかけた。
鼻水をすする。吐く息は白い。彼は手の甲で唇をぬぐう。手には少し血がついた。
だが、彼は受話器の発信音にばかり気がとられていた。
電話の音はずっと鳴り続けていた。
* *
その日、刈谷朝斗は死んだ。
事故か 自殺か それとも他殺か
今も不明のままである。
1
「はい、ゆうゆうネットです」
町田裕美は受話器を取ると、明るくそう言った。
「どうされましたか?」
裕美が聞いている間に、隣りに座っている茅野麻依が、マニュアル本を取り出した。
「はい…はい…、どうやってもネットにつながらない?」
裕美の返事に、麻依は急いでその分厚い本をめくっていく。『インターネットへのつなげ方』と書いてあるページをやっと開いた。
「コードはちゃんとつながってますか?設定はちゃんとできてますでしょうか?」
裕美は慣れた調子で言いながら、ボールペンをぶらぶらさせている。
「そこを確認…」と言いかけて、突然大きな声で「コードをもう一度見て、差しなおしてください」
麻依は書類に時刻、質問内容、氏名、電話番号、方法、解決有無などの項目に記入していく。
「あ、そうですか」裕美の声がひときわ大きくなった。麻依の手が止まる。
「よかったですねー。いえ、どういたしまして。またわからないことがございましたら、9時から5時までに、いつでもお電話くださいね。はい、失礼いたします。ありがとうございました」
裕美はやわらかな口調ですらすらと言うと、受話器を置いた。
「どうして原因、わかったんですか?」と、麻依が聞いた。
「つながってたら問題は他にあって、たいていメールで質問がくるし、声の感じでわかるんだけど、特にネットが初めての高齢者の方のようなら、最初の基本的なことから確認するの」
裕美はにっこり笑顔になったが、麻依の書いていた書類をのぞくと、
「麻依さん、書きながら電話するとあやふやになるから、あとで書く」と壁の時計を確認し、「さっきの電話は2時42分。質問内容、『ネットにつながらない』、ADSL、方法『モデムへの再接続』、解決、と…」
裕美は麻依の書いていた用紙をとると、自分でさっさと書き込んだ。
「このマニュアル見ても解決しなかったら、どうしましょう?』と麻依はマニュアルをめくる。
「もっと使いやすいの、作ってあげる」裕美はにこにこした。
「すいません」
「ほんとにわからないときは、社員にまわしたらいいんだから。ここはシステム開発がメインだから、すごいくわしいの。だからパートの私たちと違って、お給料いいしね。でも、たいていこうして人、いないけど」と、裕美は小さい声でそう言うと笑った。
裕美と麻依がいる電話を置いた机のある場所は、つい立てで仕切られ、向こうにも事務机やコンピュータがあり、男の社員のひとりがいた。
「だから社員がいなくてあとになるときは、お客さまの電話と名前を聞いておいてね」と、裕美は麻依のかわりに書いたさきほどの用紙を差し出した。
「裕美さん、てきぱきすごいなー」
麻依が驚いた口調で言うと、「12年12年、あー12年よ、このパートももう。最初はちょっとだけ、子どもが大きくなるまでのつもりだったんだけど」と裕美が話す。
そのとき、麻依の前の電話が鳴った。
「ああ、いいいい。私が出る。昔はもっと電話が多かったのよ。最近はもうみんな、ネットしてるし、携帯での人、多いでしょ」
「はい、ゆうゆうネットです。どうされましたか?」と、裕美がいつものように受話器を取ったが、「いーえ、ちがいます」とすぐ切った。
「間違い電話、これもよくあるから。で、このバイト、麻依さんは新しい就職先見つかるまで?」
「そのつもりです」
「せっかくいい会社就職して、お給料も良かったんでしょ?なんでやめたの」
「いろんな人がいるもんですよね。なんだか、疲れちゃって…。このままずーっと、そこで働いていくことを思うと…」麻依はため息まじりに言った。
「ぜいたくな悩みねー。うるさい人間関係とか、誰にでもあるもんよ」
「そうなんですけど…」と、麻依が言いかけたとき、彼女の携帯が鳴った。
バッグから麻依が手慣れた手つきで携帯を取り出した。
「はい?…またそれ。いいよ。そこは車でも1時間ぐらいかかるから、嫌だって言ったじゃない。いくら紹介されても受ける気はないから」
「麻依さん、仕事中は携帯は切っておく」と、裕美は携帯を切った麻依に言った。
「あ、すいません。つい。前の仕事ではひっきりなしだったので」
「何の話だったの?」
「あ、就職の。母親が知り合いの紹介で面接受けないかって」
「え?受けないの?」
「まあ…」
「もったいない。ああ、私が代わりにそこに就職したいくらい。って、年齢制限にひっかかりまくるわ。あなたなんて、まだ遊び放題。何でもできるじゃないの。私は独身の頃は画廊勤めでね、絵を描く方は全然ダメなんだけど、絵が好きで、自分の画廊を持ちたいって思ってた」
「今からだって」と、麻依が言う。
「ムリムリ。大きな子ども2人もいるこんなおばさんは」
「おいくつです?」
「もう45になるって」と、裕美はがっかりした顔をする。
「いえ、お子さん」
「あ、やだ。子どもね。大学2年と高3の息子。もう受験や仕送りで大変。年もとるはずねえ」
裕美が笑い、つられて麻依も笑った。
「これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ。あなたみたいな人で良かった」と、裕美が笑った。「前の人、ちょっと暗くて変わってたから」
時計が鳴る。
「あ、もう片付けましょ」と、裕美は麻依が持っていたマニュアルをとると、机の前の棚に置いた。「何を話しても、たいして反応ないし…いろいろ教えても、わかってるのかわかってないのか」
ボールペンや種類も片付ける。
「で、2年前に突然やめて。就職先見つかったからって。離婚したんだって。私は何も聞かされてなかったのに」
「そうなんですか」
「ま、別にいいんだけど。私1人になっても、まあたいして忙しくなくなってたし、だから今になって、新しい人って聞いて驚いたわー」
「すいません」と、麻依はついあやまった。時計を見ると、秒針が進んでいる。
「やだ、歓迎よ。いい加減飽きてた仕事にもはりあいができるし」裕美は声を出して笑った。
また麻依の前の電話が鳴った。
「いいからいいから」と、裕美が手をのばした。
「はい…」いつものように言いかけたとき、含み笑いのような声が聞こえた。
『おまえ、10年前の刈谷朝斗が死んだワケ、
知りたいんだろ?
カラスアパートに来いよ』
「え?」
裕美が言おうとしたが、すぐに切れた。
麻依がきょとんとしている。「また間違い電話でした?」
「間違いみたいなんだけど…」裕美は困惑したような顔をしている。
電話ボックスにいる少年も、雪を見ている。だが、彼は雪に関心はなく、ポケットの中をさぐっていた。そして小銭を取り出すと、電話をかけた。
鼻水をすする。吐く息は白い。彼は手の甲で唇をぬぐう。手には少し血がついた。
だが、彼は受話器の発信音にばかり気がとられていた。
電話の音はずっと鳴り続けていた。
* *
その日、刈谷朝斗は死んだ。
事故か 自殺か それとも他殺か
今も不明のままである。
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「はい、ゆうゆうネットです」
町田裕美は受話器を取ると、明るくそう言った。
「どうされましたか?」
裕美が聞いている間に、隣りに座っている茅野麻依が、マニュアル本を取り出した。
「はい…はい…、どうやってもネットにつながらない?」
裕美の返事に、麻依は急いでその分厚い本をめくっていく。『インターネットへのつなげ方』と書いてあるページをやっと開いた。
「コードはちゃんとつながってますか?設定はちゃんとできてますでしょうか?」
裕美は慣れた調子で言いながら、ボールペンをぶらぶらさせている。
「そこを確認…」と言いかけて、突然大きな声で「コードをもう一度見て、差しなおしてください」
麻依は書類に時刻、質問内容、氏名、電話番号、方法、解決有無などの項目に記入していく。
「あ、そうですか」裕美の声がひときわ大きくなった。麻依の手が止まる。
「よかったですねー。いえ、どういたしまして。またわからないことがございましたら、9時から5時までに、いつでもお電話くださいね。はい、失礼いたします。ありがとうございました」
裕美はやわらかな口調ですらすらと言うと、受話器を置いた。
「どうして原因、わかったんですか?」と、麻依が聞いた。
「つながってたら問題は他にあって、たいていメールで質問がくるし、声の感じでわかるんだけど、特にネットが初めての高齢者の方のようなら、最初の基本的なことから確認するの」
裕美はにっこり笑顔になったが、麻依の書いていた書類をのぞくと、
「麻依さん、書きながら電話するとあやふやになるから、あとで書く」と壁の時計を確認し、「さっきの電話は2時42分。質問内容、『ネットにつながらない』、ADSL、方法『モデムへの再接続』、解決、と…」
裕美は麻依の書いていた用紙をとると、自分でさっさと書き込んだ。
「このマニュアル見ても解決しなかったら、どうしましょう?』と麻依はマニュアルをめくる。
「もっと使いやすいの、作ってあげる」裕美はにこにこした。
「すいません」
「ほんとにわからないときは、社員にまわしたらいいんだから。ここはシステム開発がメインだから、すごいくわしいの。だからパートの私たちと違って、お給料いいしね。でも、たいていこうして人、いないけど」と、裕美は小さい声でそう言うと笑った。
裕美と麻依がいる電話を置いた机のある場所は、つい立てで仕切られ、向こうにも事務机やコンピュータがあり、男の社員のひとりがいた。
「だから社員がいなくてあとになるときは、お客さまの電話と名前を聞いておいてね」と、裕美は麻依のかわりに書いたさきほどの用紙を差し出した。
「裕美さん、てきぱきすごいなー」
麻依が驚いた口調で言うと、「12年12年、あー12年よ、このパートももう。最初はちょっとだけ、子どもが大きくなるまでのつもりだったんだけど」と裕美が話す。
そのとき、麻依の前の電話が鳴った。
「ああ、いいいい。私が出る。昔はもっと電話が多かったのよ。最近はもうみんな、ネットしてるし、携帯での人、多いでしょ」
「はい、ゆうゆうネットです。どうされましたか?」と、裕美がいつものように受話器を取ったが、「いーえ、ちがいます」とすぐ切った。
「間違い電話、これもよくあるから。で、このバイト、麻依さんは新しい就職先見つかるまで?」
「そのつもりです」
「せっかくいい会社就職して、お給料も良かったんでしょ?なんでやめたの」
「いろんな人がいるもんですよね。なんだか、疲れちゃって…。このままずーっと、そこで働いていくことを思うと…」麻依はため息まじりに言った。
「ぜいたくな悩みねー。うるさい人間関係とか、誰にでもあるもんよ」
「そうなんですけど…」と、麻依が言いかけたとき、彼女の携帯が鳴った。
バッグから麻依が手慣れた手つきで携帯を取り出した。
「はい?…またそれ。いいよ。そこは車でも1時間ぐらいかかるから、嫌だって言ったじゃない。いくら紹介されても受ける気はないから」
「麻依さん、仕事中は携帯は切っておく」と、裕美は携帯を切った麻依に言った。
「あ、すいません。つい。前の仕事ではひっきりなしだったので」
「何の話だったの?」
「あ、就職の。母親が知り合いの紹介で面接受けないかって」
「え?受けないの?」
「まあ…」
「もったいない。ああ、私が代わりにそこに就職したいくらい。って、年齢制限にひっかかりまくるわ。あなたなんて、まだ遊び放題。何でもできるじゃないの。私は独身の頃は画廊勤めでね、絵を描く方は全然ダメなんだけど、絵が好きで、自分の画廊を持ちたいって思ってた」
「今からだって」と、麻依が言う。
「ムリムリ。大きな子ども2人もいるこんなおばさんは」
「おいくつです?」
「もう45になるって」と、裕美はがっかりした顔をする。
「いえ、お子さん」
「あ、やだ。子どもね。大学2年と高3の息子。もう受験や仕送りで大変。年もとるはずねえ」
裕美が笑い、つられて麻依も笑った。
「これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ。あなたみたいな人で良かった」と、裕美が笑った。「前の人、ちょっと暗くて変わってたから」
時計が鳴る。
「あ、もう片付けましょ」と、裕美は麻依が持っていたマニュアルをとると、机の前の棚に置いた。「何を話しても、たいして反応ないし…いろいろ教えても、わかってるのかわかってないのか」
ボールペンや種類も片付ける。
「で、2年前に突然やめて。就職先見つかったからって。離婚したんだって。私は何も聞かされてなかったのに」
「そうなんですか」
「ま、別にいいんだけど。私1人になっても、まあたいして忙しくなくなってたし、だから今になって、新しい人って聞いて驚いたわー」
「すいません」と、麻依はついあやまった。時計を見ると、秒針が進んでいる。
「やだ、歓迎よ。いい加減飽きてた仕事にもはりあいができるし」裕美は声を出して笑った。
また麻依の前の電話が鳴った。
「いいからいいから」と、裕美が手をのばした。
「はい…」いつものように言いかけたとき、含み笑いのような声が聞こえた。
『おまえ、10年前の刈谷朝斗が死んだワケ、
知りたいんだろ?
カラスアパートに来いよ』
「え?」
裕美が言おうとしたが、すぐに切れた。
麻依がきょとんとしている。「また間違い電話でした?」
「間違いみたいなんだけど…」裕美は困惑したような顔をしている。
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