光起が暮らしていた祖母の家は、静かな住宅地にあった。区画整理された、大半が一軒家ばかりの区域であるが、古い昔からある町なので、最近の住宅地とは違い家の間の道幅は狭く、建ち並ぶ家々も年月を感じさせた。
施納はブロック塀の側に車を止めた。真城の表札の横の門を開けようとしてふと顔をあげると、隣の家の2階のベランダからこちらをのぞく年配の女性と目が合った。その女性が軽くお辞儀をするので、彼も少し頭を下げた。事件のときは、この住宅地で話題だったことだろうと察しがつく。
彼が母親の実家であるこの家に、よく来ていたのは小学生の頃だ。両親が離婚してからはほとんど来ることはなかった。10年前、母親が亡くなると、特に足が遠のいた。時々来たのは、弟の光起が警察の世話になったときぐらいのものだった。施納は弟とは16も年が離れている。年の差がそのまま会話のずれになった。
祖母は光起が死んでからというもの、無口になり、人が変わったようだった。非行にはしる彼を止められなかったと、自分を責めていた。時々こっそり夜に抜け出して、朝まで帰らなかったことも何度かあったのに、そのときしかるだけで、他に何もしなかったと悔やみ続けていた。非行にはしる10代の子供を止めることは親でも難しい。
電話が鳴っている。玄関を開け声をかけるが、祖母はいないようで、施納は急いで電話をとった。それは図書館からの光起への電話だった。「返却日をずいぶん過ぎてますので、よろしくお願いします」と言った。電話の相手は、こちらを光起本人だと思い込んでいるようだった。
施納はその本を探そうと2階へ上がった。弟の部屋は生前のままにされていた。6畳の広さの、机、いす、本棚、クローゼット、テレビ、ベッドなどがあるだけの簡素な部屋だった。パソコンやゲーム機はない。祖母がやらせなかったからだ。雑誌や本は不揃いで、脇にも積み上げられている。机には消しゴムカスも残っていたが、うっすらと埃がたまっている。ベッドの布団がきちんとなっているところが、この部屋の主の不在を物語っていた。
彼はすぐに本棚に近づいた。本棚の前の部分にはいろいろな小さなフィギュアが並んでいる。お菓子のオマケについてるようなものだろう。会社の部下が持っていて、中に何が入っているかわからないので箱ごと買ったと、熱心に話していたことがあった。
本は文庫本からハードカバーまでたくさんあった。これらの本は、実はこの家に以前からあったもので、母親が読んだものもある。それら全部をこの本棚に入れてあったのだ。だから、光起が自分で買った本はそう多くない。ほとんどが雑誌の部類だろう。
その並んだ本のタイトル部分を指でなぞりながらいくと、ある本で手を止め、前に並んだフィギュアをどけると、引き抜いた。最後をめくってみると、図書館の印が入り、カードを入れる場所と、日付けのスタンプが押されて、最後の日付けは亡くなる数日前のものだった。本のタイトルは「ある詩人の生涯」というものだ。
チーンと、りんを叩く音がした。施納はその本を持つと、階下におりて行った。祖母の真城恭子は仏壇の前に座り、懸命に拝んでいた。
「帰ってこないのに、またいつものことだと思ってた。ごめんねぇ、コウちゃん」と、恭子は目の前に飾ってある光起の写真に向かって話す。
その隣には、10年前に亡くなった母親の奈津実の写真も並んでいる。
「おばあちゃんのせいじゃないよ」
施納はなぐさめるつもりで言った。
「だから夢で、あの子があんなになってるところを見たときはね…」
祖母は夢で光起が死んでる姿を見たが、それが発見された現実と同じ光景だったと熱心に言っていた。
「夢と現実がごちゃ混ぜになってるんだよ。あんまり寝てないんじゃない?」
「英ちゃん、あんたのお母さん、奈津実のときだって私、見たのよ。夢とそっくりに…」
母親の奈津実は事故で、自宅マンションから落ちて亡くなった。施納が今の会社に入ったばかりの頃だ。
「おばあちゃん、またそんな」
施納は半分あきれていた。恭子は信心深いが、その分、縁起や方角、霊などを信じている。何かあると縁起が悪いだの、お祓いをしてもらうだの言っている。
「本当なのよ」
恭子は施納が冷ややかに思っているのを、知っているように言う。
「うちの家系には変な能力がある。私のお父さんやおばあさんにもあったし、奈津実だって、人が何を悩んでいるかわかるとかって、よく言ってたのよ」
「残念ながら、おれや光起にはそんな能力はまるで何もなかったけどね」
施納はとりあえず恭子の会話につき合った。
「やっぱり親代わりは無理だったのよねえ。英ちゃん、あんたにも、光起に何か問題あるたびに、世話かけたわね。ごめんねぇ。頼りないおばあちゃんで」
恭子は仏壇に向かって手を合わせながら言った。
親代わりは誰にもできないだろう。施納は警察に、補導された光起を引き受けに行った、あるときのことを思い出した。
* *
施納は車から下りると、思いっきり打ち付けるようにドアを閉めた。大事な仕事があった。自分の営業でとれそうな大きな仕事だった。その日に祖母からの電話だ。光起が万引き事件を起こし、引き受けに行って欲しいというものだった。祖母の声はあきらかに不安そうだった。
前にも一度、警察の世話になっている。そのときに、祖母ではあまりにも心もとなかったので、施納は何かあれば自分が対応するから、連絡してほしいと言っていたのだ。だが、それがちょうど今日の大事な日に重なったせいで、施納の本心は祖母に行って欲しかった。彼は同僚や上司にも何も言わず、仕事に没頭した。が、結局、見積りコストの差で、別の会社にその仕事は取られて終わった。
施納が警察に行ったときには、すっかり夜遅くなっていた。警察の人が、祖母の恭子から何度か電話があったことを彼に告げた。
光起はだらんと椅子に座り、天井をぼんやり見ていた。待たされていらついてるわけでも、かといって反省してるようでもなく、ただぼんやりしていたのが、施納を腹立たしい思いにさせた。
「おばあちゃんに心配かけることするんじゃない、いつも言ってるだろう」
2人は警察の廊下を歩くが、光起は少し後をついて来る。
「万引きなんてのは、最低のやつがすることだ」
光起は黙ったままだ。
「アクセサリーだって?そんなものちゃらちゃらする間があったら勉強しろ」
施納はどんどん前を歩く。
「連れがいたんじゃないのか?おまえが側にいたが、盗んだやつは逃げたそうじゃないか。そんなやつ、いくらおまえがかばっても、おまえのことなんてどうも思っちゃいない。『ラッキー』ぐらいに思ってるだけだ」
光起がふふっと笑った。
「なんだ?」
施納はむっときた。
「『ラッキー』なんてそんな言い方しないよ。『やりー』とか」
「ふざけるな」
施納は怒鳴って振り向いた。光起も立ち止まり、鼻をこする。
彼のその指にはドクロの指輪がしてある。この年の離れた弟は、いったいどういう趣味をしているのか。だが、施納の非難が、その冷ややかなまなざしに表れていたのだろう、「これはちゃんと買った」と、光起が言った。
施納はまた前を向いて歩き出した。
「そんなこと言ってるんじゃない。だいたいおまえは悪いことしたと思ってないのか」
「思ってない」
光起はさらっと言った。
「おれが万引きしたんじゃないし」
「だったらそう警察に言え」
「言っても信じないだろ」
「信じないな」
「ほらね」と、光起は笑った。
「おれは今日仕事で大変だったんだ」
「みたいだね。だったら来なくていいよ」
「まったく、そんなに人を困らせて、迷惑かけて楽しいか」
施納は勢い良く車に乗り込んだ。光起は突っ立ったままだ。施納は腹がたち、声もかけずにハンドルを握ったまま待っていた。
「楽しいかも」と、光起が言った。
施納はため息をついた。
「おまえと話がかみ合ったことがない。なんでわからないんだ」
エンジンをかける。
「さっさと乗れ」
「ここでいいよ。ありがとう、兄さん」
施納はそのままアクセルを踏んだ。感謝の言葉も嫌みに聞こえる。乗せて帰る気も失せた。
バックミラーには、光起がじっとこちらを見たまま立っている姿が、小さくなっていくのが見えた。
施納はブロック塀の側に車を止めた。真城の表札の横の門を開けようとしてふと顔をあげると、隣の家の2階のベランダからこちらをのぞく年配の女性と目が合った。その女性が軽くお辞儀をするので、彼も少し頭を下げた。事件のときは、この住宅地で話題だったことだろうと察しがつく。
彼が母親の実家であるこの家に、よく来ていたのは小学生の頃だ。両親が離婚してからはほとんど来ることはなかった。10年前、母親が亡くなると、特に足が遠のいた。時々来たのは、弟の光起が警察の世話になったときぐらいのものだった。施納は弟とは16も年が離れている。年の差がそのまま会話のずれになった。
祖母は光起が死んでからというもの、無口になり、人が変わったようだった。非行にはしる彼を止められなかったと、自分を責めていた。時々こっそり夜に抜け出して、朝まで帰らなかったことも何度かあったのに、そのときしかるだけで、他に何もしなかったと悔やみ続けていた。非行にはしる10代の子供を止めることは親でも難しい。
電話が鳴っている。玄関を開け声をかけるが、祖母はいないようで、施納は急いで電話をとった。それは図書館からの光起への電話だった。「返却日をずいぶん過ぎてますので、よろしくお願いします」と言った。電話の相手は、こちらを光起本人だと思い込んでいるようだった。
施納はその本を探そうと2階へ上がった。弟の部屋は生前のままにされていた。6畳の広さの、机、いす、本棚、クローゼット、テレビ、ベッドなどがあるだけの簡素な部屋だった。パソコンやゲーム機はない。祖母がやらせなかったからだ。雑誌や本は不揃いで、脇にも積み上げられている。机には消しゴムカスも残っていたが、うっすらと埃がたまっている。ベッドの布団がきちんとなっているところが、この部屋の主の不在を物語っていた。
彼はすぐに本棚に近づいた。本棚の前の部分にはいろいろな小さなフィギュアが並んでいる。お菓子のオマケについてるようなものだろう。会社の部下が持っていて、中に何が入っているかわからないので箱ごと買ったと、熱心に話していたことがあった。
本は文庫本からハードカバーまでたくさんあった。これらの本は、実はこの家に以前からあったもので、母親が読んだものもある。それら全部をこの本棚に入れてあったのだ。だから、光起が自分で買った本はそう多くない。ほとんどが雑誌の部類だろう。
その並んだ本のタイトル部分を指でなぞりながらいくと、ある本で手を止め、前に並んだフィギュアをどけると、引き抜いた。最後をめくってみると、図書館の印が入り、カードを入れる場所と、日付けのスタンプが押されて、最後の日付けは亡くなる数日前のものだった。本のタイトルは「ある詩人の生涯」というものだ。
チーンと、りんを叩く音がした。施納はその本を持つと、階下におりて行った。祖母の真城恭子は仏壇の前に座り、懸命に拝んでいた。
「帰ってこないのに、またいつものことだと思ってた。ごめんねぇ、コウちゃん」と、恭子は目の前に飾ってある光起の写真に向かって話す。
その隣には、10年前に亡くなった母親の奈津実の写真も並んでいる。
「おばあちゃんのせいじゃないよ」
施納はなぐさめるつもりで言った。
「だから夢で、あの子があんなになってるところを見たときはね…」
祖母は夢で光起が死んでる姿を見たが、それが発見された現実と同じ光景だったと熱心に言っていた。
「夢と現実がごちゃ混ぜになってるんだよ。あんまり寝てないんじゃない?」
「英ちゃん、あんたのお母さん、奈津実のときだって私、見たのよ。夢とそっくりに…」
母親の奈津実は事故で、自宅マンションから落ちて亡くなった。施納が今の会社に入ったばかりの頃だ。
「おばあちゃん、またそんな」
施納は半分あきれていた。恭子は信心深いが、その分、縁起や方角、霊などを信じている。何かあると縁起が悪いだの、お祓いをしてもらうだの言っている。
「本当なのよ」
恭子は施納が冷ややかに思っているのを、知っているように言う。
「うちの家系には変な能力がある。私のお父さんやおばあさんにもあったし、奈津実だって、人が何を悩んでいるかわかるとかって、よく言ってたのよ」
「残念ながら、おれや光起にはそんな能力はまるで何もなかったけどね」
施納はとりあえず恭子の会話につき合った。
「やっぱり親代わりは無理だったのよねえ。英ちゃん、あんたにも、光起に何か問題あるたびに、世話かけたわね。ごめんねぇ。頼りないおばあちゃんで」
恭子は仏壇に向かって手を合わせながら言った。
親代わりは誰にもできないだろう。施納は警察に、補導された光起を引き受けに行った、あるときのことを思い出した。
* *
施納は車から下りると、思いっきり打ち付けるようにドアを閉めた。大事な仕事があった。自分の営業でとれそうな大きな仕事だった。その日に祖母からの電話だ。光起が万引き事件を起こし、引き受けに行って欲しいというものだった。祖母の声はあきらかに不安そうだった。
前にも一度、警察の世話になっている。そのときに、祖母ではあまりにも心もとなかったので、施納は何かあれば自分が対応するから、連絡してほしいと言っていたのだ。だが、それがちょうど今日の大事な日に重なったせいで、施納の本心は祖母に行って欲しかった。彼は同僚や上司にも何も言わず、仕事に没頭した。が、結局、見積りコストの差で、別の会社にその仕事は取られて終わった。
施納が警察に行ったときには、すっかり夜遅くなっていた。警察の人が、祖母の恭子から何度か電話があったことを彼に告げた。
光起はだらんと椅子に座り、天井をぼんやり見ていた。待たされていらついてるわけでも、かといって反省してるようでもなく、ただぼんやりしていたのが、施納を腹立たしい思いにさせた。
「おばあちゃんに心配かけることするんじゃない、いつも言ってるだろう」
2人は警察の廊下を歩くが、光起は少し後をついて来る。
「万引きなんてのは、最低のやつがすることだ」
光起は黙ったままだ。
「アクセサリーだって?そんなものちゃらちゃらする間があったら勉強しろ」
施納はどんどん前を歩く。
「連れがいたんじゃないのか?おまえが側にいたが、盗んだやつは逃げたそうじゃないか。そんなやつ、いくらおまえがかばっても、おまえのことなんてどうも思っちゃいない。『ラッキー』ぐらいに思ってるだけだ」
光起がふふっと笑った。
「なんだ?」
施納はむっときた。
「『ラッキー』なんてそんな言い方しないよ。『やりー』とか」
「ふざけるな」
施納は怒鳴って振り向いた。光起も立ち止まり、鼻をこする。
彼のその指にはドクロの指輪がしてある。この年の離れた弟は、いったいどういう趣味をしているのか。だが、施納の非難が、その冷ややかなまなざしに表れていたのだろう、「これはちゃんと買った」と、光起が言った。
施納はまた前を向いて歩き出した。
「そんなこと言ってるんじゃない。だいたいおまえは悪いことしたと思ってないのか」
「思ってない」
光起はさらっと言った。
「おれが万引きしたんじゃないし」
「だったらそう警察に言え」
「言っても信じないだろ」
「信じないな」
「ほらね」と、光起は笑った。
「おれは今日仕事で大変だったんだ」
「みたいだね。だったら来なくていいよ」
「まったく、そんなに人を困らせて、迷惑かけて楽しいか」
施納は勢い良く車に乗り込んだ。光起は突っ立ったままだ。施納は腹がたち、声もかけずにハンドルを握ったまま待っていた。
「楽しいかも」と、光起が言った。
施納はため息をついた。
「おまえと話がかみ合ったことがない。なんでわからないんだ」
エンジンをかける。
「さっさと乗れ」
「ここでいいよ。ありがとう、兄さん」
施納はそのままアクセルを踏んだ。感謝の言葉も嫌みに聞こえる。乗せて帰る気も失せた。
バックミラーには、光起がじっとこちらを見たまま立っている姿が、小さくなっていくのが見えた。
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