いったい光起は何を考えていたのだろう。いま、振り返ってみてもわからない。反抗ばかりしていた印象しかない。
救急車の音が通り過ぎ、だんだん小さくなっていく。施納はその音をずっと追いかけていて、聞こえなくなると、再び本に目をやった。結局、祖母には写真のことは語らず、進展はないとだけ報告して、弟が借りていた本だけを、図書館に返すために持ち帰った。
それはランボーという昔の詩人の生涯を書いた本だった。施納は食事が終わるとすぐ自分の部屋でその本を読み始めた。
いつもならヘッドフォンで好きな音楽を聞くのが習慣だ。彼の部屋には大きなオーディオデッキがあり、レコード、CD、MD、カセット、なんにでも対応できる。ビデオデッキ、DVD、パソコン、デジカメ、新しい機器がでるたび買いそろえることぐらいが、彼の趣味といっていい。テレビの横の棚には、音楽の買ったものや、彼が編集して丁寧にタイトルをつけたコレクションがずらりと並んでいる。そこからその日の気分で、聞いたり見たりするものを選ぶのが楽しみだった。
いつもは本はほとんど読まない。新聞ぐらいだ。だから、読み進めるのには時間がかかった。インスタントコーヒーの2杯目を飲み終えてしばらくして、ようやく本も終わりかけている。
内容は早熟な天才と呼ばれた詩人が、やがて詩を書くのをやめ、放浪する。商人となりアフリカで貿易をするが、病気が悪化して若くして死んだという生涯を書いたものだった。
なぜ光起はこの本に興味があったんだろうと思う。彼の知っている弟は、本を読むとか、ましてや詩人のランボーに興味をもつはずがない。非常識で単純、人に迷惑をかけても平気で、罪悪感すらなかったのだ。
ため息をついて本を閉じ、首を回した。時計を見ると、とうに午前零時をまわっている。彼は本を机に放ると、ベッドに寝転がった。あくびをして、目頭を押さえる。
隣りから、男女のいがみ合う声が聞こえていた。ののしり合い、物が壊れる音がし、悲鳴がする。子供が泣きわめく。
いつもはヘッドフォンをして音楽を聴いたりしているから気付かなかっただけで、いつものことなのかもしれないと思った。再び罵倒する声。
* *
「いい加減にしろ!」
男はネクタイをはずしながら怒鳴った。
「だって、今晩帰るの遅いって言ってたじゃない。だから夕食作るのは遅くていいかと思ったのよ」
女は落ちているタオルや靴下を拾った。
「そんなこと言ってるんじゃない。おまえは子供に手をかけすぎだ。いくつだと思ってるんだ。もう来年は中学生だぞ」
「わかってますよ」と、女は新聞をきれいにたたむ。
「だったらもう勉強でも、部屋の掃除でも、小鳥の世話でもなんでもひとりでやらせておけ」
男がシャツを脱ぎ、背中を向けた。
「わかってます」
女はテーブルの下のこぼれているお菓子をかき集めた。
「前もそう言ってたな、ぜんぜんそうしてないじゃないか」
男は女の前のソファーにどかっと座った。
「じゃあ何て言えばいいんですか。あなただって仕事仕事って、飲んで帰るのも、日曜日にパチンコやゴルフも仕事ですか?あなたがいないから、そのぶんも子供に手をかけてあげてるんです。部屋の掃除、小鳥の世話もやったことあります?」
「もういい」
女はお菓子を握りしめた。
「誰ですか?あなたの心を占めてるのは」
「なに?」
「わかってるんですよ。あなたの思ってることは」と、女が立ち上がった。
「いい加減にしろ!おまえにわかるわけがないだろ。おれが何思ってるかなんてな」
「あなたになんか、子供のことで文句言われたくない」
「もういい!」
男はネクタイとシャツを女に放り投げた。
女が急ぎ足で、見ていた“彼”に近づいてくると、「いらっしゃい、英二!」と手を伸ばしてきた。
* *
突然の人の手の感触に、びくっとして目が覚めた。
「着替えもしないで、眠りこんじゃだめよ」
麻美がのぞきこんでいる。
となりから聞こえた喧嘩が、うとうとして、いつしか自分の両親の夢に変わっていたのだ。喧嘩が絶えなかった両親は、やがて当然のように離婚した。
「ああ」
彼はソファーから目をこすりながら起き上がった。
「電気がついてるから、まだ起きてるのかと思った」
麻美が言った。ここに引っ越して来たら部屋数があり、彼らはそれぞれの部屋を持ち、別々に寝ていた。引っ越す前もベッドはいっしょだったが、もう何年も別々に寝ているようなものだったから、それは自然なことだった。
「もう寝るよ」
「そう、おやすみ」と、麻美は出て行く。
「うん、おやすみ」
施納は麻美がドアを閉め切る前に、そう言った。
3
施納は大手の建設会社に勤めていた。営業部1課課長だ。弟が亡くなって1週間たたずに出社し始めた。人員削減のせいで、休むだけ仕事がたまる一方だからだ。今はようやく元のペースに戻れそうになりつつある。
昼前のオフィスは人がいない。部下は外に出ているし、いるのは施納と、営業事務の江崎利香だけだった。その彼らも仕事に追われ、仕事の話、プリントアウトの音、ファックスの音など、いろいろな音が部屋中に響いている。
「課長」と、部下の国沢柊が書類を持ち、急ぎ足で入ってきた。「例の開発中の津江地区のマンション、工事が遅れているようですね」
「あてにならんな」
彼らがとった大きな仕事だった。今は仕事管轄は建築部に移行していた件だが、営業部としても、部下の国沢が管理部といっしょに入居募集で見学会を行っている。
工事の遅れはよくあることで、早く仕上がることの方が少ないから、驚くことではないが、納期には合わさなくてはならないので、終わり頃に突貫工事されるより、今からペースを上げてもらう方がよかった。
「でしょう?これからチェックに行きます。なんでもっと早く言ってくれないんですかね」と、国沢は舌打ちした。
「まったくだな、頼んだよ。おれも、今日はちょっと無理だが、今度見に行くよ」
「わかりました」と、国沢は元気良く走り出て行った。
入れ替わるように、廊下を女性社員が走って来たのが見えた。
「前島課長、おはようございます。牧本さんが、課長がいらっしゃったら、相手先とは3時に会うことになったと伝えておいてくださいって」
その声に廊下で振り向いたのは前島洋介だ。彼の机からはよく見える位置だ。
「あ、そう。わかった」
「携帯、入れてなかったんですか?連絡したのにつながらなかったって…」
「あ、そうだ」と、前島はあわててポケットから携帯を取り出し、電源を入れた。そのとき、ティッシュがポケットから落ちた。女性社員が拾い上げる。
「いやー、昨日は飲みすぎちゃってねえ。あ、それあげる」
と、前島洋介はにこにこ通り過ぎた。
前島は彼と同期の入社で、同じ営業部の2課の課長だ。施納の1課は得意先営業で決まっているが、前島の2課は得意先開拓が業務だ。いずれはどちらかが営業部長になるだろうが、最近、前島の2課が比較的大きな新たな仕事を取ったことで、内心、施納はあせりを感じている。
前島は施納と目が合うと、軽く手を上げ、挨拶して廊下を過ぎて行った。入社したての頃からの数年は、よく2人で飲みに行ったものだった。というのも人なつこい前島がよく彼を誘ったからだ。
麻美と結婚する前も、会社の人間では一番最初に紹介した。とても喜んでくれたものだ。
昔からいつもきれいな色のネクタイを締め、髪も乱しているのを見たことがないほど、きちんとした身なりをしている。
施納は一度、女子社員が給湯室で前島がかっこいいと言っていたのを、通りすがりに聞いたことがあった。独身ということもあるが、施納と違い、快活でよく冗談を言い、部下とも気軽に接していたこともあるだろう。
初め出会った頃から、前島は自分とはまったく違う性格、つまり相性的には本当は合わないと思っていた。もちろん施納の方が、屈託なく明るく接する前島に対して引いてしまい、反感のようなものを抱き距離をもっただけで、前島がどう思っているのかはわからなかったが。
部下の江崎利香が、彼を見ているのに気付いた。
「課長、2番に電話です。矢崎工業の土田さんからです」
施納は電話の2番を押しながら、すばやく仕事に意識を切り替えた。
夕方、まだ明るかった。施納は図書館の閉館時間があるため、早めに会社を出てきた。車を下りる。手には「ある詩人の生涯」を持っていた。
祖母が図書館からの電話を受けたとしても、警察に引き受けに行くのもいつも彼だったように、本を返しにくるのは彼だっただろう。
図書館は祖母の家の近くにあった。ずいぶんと汚れた古めかしい建物だが、学校や繁華街に近く、便利な場所にあるため、やって来ている人はけっこういる。
本を戻すと「間に合わないときは、一度戻して、もう一度借りるようにお願いしますね」と、司書は事務的に言いながら、図書カードを彼に返した。本人と勘違いしている。
図書カードをまじまじと見た。「真城光起」と住所、電話番号が鉛筆で書かれている。走り書きのような雑な字だった。しかしそれより、図書館がいまだに手書きのカードを使っているのが意外だった。施納は図書館を利用したことがなかったが、それでも今の時代、当然電子化されているのだろうと思っていたからだ。光起の手書きの字を見ると、彼が生きて生活していたことをリアルに思い起こさせた。
施納はカードをポケットに入れると、あたりを見回した。読書室には学校帰りの学生が多かった。本をめくる者、教科書で勉強する者、机に伏せて眠ってる者、ひそひそ話して笑ってる者、いろいろだ。
光起もよく図書館を利用していたのだろうかと、ふと思う。が、あの弟が図書館で本を読むという光景はどうにも思い浮かばなかった。
1人の女子学生とすれ違いざまにぶつかり、学生は本の間からコピー紙をばらまいた。急いでそれを拾い集める。施納もあやまって、あわてて拾うのを手伝って、その1枚に目が止まった。死体が映っている。
女子高生は眺めているままの施納の手から、その1枚をもぎとった。彼女が手にしている本の表紙も、首吊り写真がついていた。
彼女は黙って不機嫌そうな顔のまま、それらを抱えて走って行った。
施納はぼんやり見送ると、自分の手を見た。女子高生がコピー紙をもぎとったとき、小さな痛みを感じたからだ。手の平にはつうっと赤い線が現れ出していた。
トイレに行き、手の平を洗う。かすかな血が流れた。女子高生と残酷死体の本の取り合わせは、あまりに違和感があった。女子高生という一見、明るく元気で若々しい表面の裏側に、みんなああいう暗さが巣くっているものなんだろうかと思った。
いや、と彼は思い直す。誰にでも見せたくない裏側はある。光起も彼には見せない面が必ずあったのだろうと、そう思った。
手の平をまた押してみると、血がにじみでてくる。赤い筋。彼の脳裏に左脇腹、左手の中指、右耳の後ろ、左太もも内側、右臀部横、左足親指裏関節にあった文字のような傷の写真が蘇る。
彼は血が出なくなるまで、手の平を押すことを執拗に繰り返した。
車の中で、しばらくの間、送りつけられてきた弟の身体のマークの写真を眺めていた。が、やがてまた寄せ集めた。鞄の中に入れて持ち歩いている。どういう意味なのか、文字としていろいろ組み合わせてもみたが、わからなかった。
車の横を学校帰りの子供たちが騒ぎながら通り過ぎ、また外を見た。のどかな夕方は、施納に緊張感を失せさせた。
写真を鞄にしまおうとして、図書カードのことを思い出し、ポケットから取り出した。乱暴に書かれた住所と名前。おそらく本を借りるときに、急いで書いたのだろう。何気なく裏返すと、鉛筆で薄く数字が書いてあった。
それをじっくり見た。電話番号のようだ。いったいどこにつながるのだろう。興味をもった彼は携帯に手をのばすと、ゆっくりと確かめながら、その番号を押した。
「ありがとうございます。マンガ&ネットカフェ、パピー和泉店です」と、明るい声が聞こえた。
救急車の音が通り過ぎ、だんだん小さくなっていく。施納はその音をずっと追いかけていて、聞こえなくなると、再び本に目をやった。結局、祖母には写真のことは語らず、進展はないとだけ報告して、弟が借りていた本だけを、図書館に返すために持ち帰った。
それはランボーという昔の詩人の生涯を書いた本だった。施納は食事が終わるとすぐ自分の部屋でその本を読み始めた。
いつもならヘッドフォンで好きな音楽を聞くのが習慣だ。彼の部屋には大きなオーディオデッキがあり、レコード、CD、MD、カセット、なんにでも対応できる。ビデオデッキ、DVD、パソコン、デジカメ、新しい機器がでるたび買いそろえることぐらいが、彼の趣味といっていい。テレビの横の棚には、音楽の買ったものや、彼が編集して丁寧にタイトルをつけたコレクションがずらりと並んでいる。そこからその日の気分で、聞いたり見たりするものを選ぶのが楽しみだった。
いつもは本はほとんど読まない。新聞ぐらいだ。だから、読み進めるのには時間がかかった。インスタントコーヒーの2杯目を飲み終えてしばらくして、ようやく本も終わりかけている。
内容は早熟な天才と呼ばれた詩人が、やがて詩を書くのをやめ、放浪する。商人となりアフリカで貿易をするが、病気が悪化して若くして死んだという生涯を書いたものだった。
なぜ光起はこの本に興味があったんだろうと思う。彼の知っている弟は、本を読むとか、ましてや詩人のランボーに興味をもつはずがない。非常識で単純、人に迷惑をかけても平気で、罪悪感すらなかったのだ。
ため息をついて本を閉じ、首を回した。時計を見ると、とうに午前零時をまわっている。彼は本を机に放ると、ベッドに寝転がった。あくびをして、目頭を押さえる。
隣りから、男女のいがみ合う声が聞こえていた。ののしり合い、物が壊れる音がし、悲鳴がする。子供が泣きわめく。
いつもはヘッドフォンをして音楽を聴いたりしているから気付かなかっただけで、いつものことなのかもしれないと思った。再び罵倒する声。
* *
「いい加減にしろ!」
男はネクタイをはずしながら怒鳴った。
「だって、今晩帰るの遅いって言ってたじゃない。だから夕食作るのは遅くていいかと思ったのよ」
女は落ちているタオルや靴下を拾った。
「そんなこと言ってるんじゃない。おまえは子供に手をかけすぎだ。いくつだと思ってるんだ。もう来年は中学生だぞ」
「わかってますよ」と、女は新聞をきれいにたたむ。
「だったらもう勉強でも、部屋の掃除でも、小鳥の世話でもなんでもひとりでやらせておけ」
男がシャツを脱ぎ、背中を向けた。
「わかってます」
女はテーブルの下のこぼれているお菓子をかき集めた。
「前もそう言ってたな、ぜんぜんそうしてないじゃないか」
男は女の前のソファーにどかっと座った。
「じゃあ何て言えばいいんですか。あなただって仕事仕事って、飲んで帰るのも、日曜日にパチンコやゴルフも仕事ですか?あなたがいないから、そのぶんも子供に手をかけてあげてるんです。部屋の掃除、小鳥の世話もやったことあります?」
「もういい」
女はお菓子を握りしめた。
「誰ですか?あなたの心を占めてるのは」
「なに?」
「わかってるんですよ。あなたの思ってることは」と、女が立ち上がった。
「いい加減にしろ!おまえにわかるわけがないだろ。おれが何思ってるかなんてな」
「あなたになんか、子供のことで文句言われたくない」
「もういい!」
男はネクタイとシャツを女に放り投げた。
女が急ぎ足で、見ていた“彼”に近づいてくると、「いらっしゃい、英二!」と手を伸ばしてきた。
* *
突然の人の手の感触に、びくっとして目が覚めた。
「着替えもしないで、眠りこんじゃだめよ」
麻美がのぞきこんでいる。
となりから聞こえた喧嘩が、うとうとして、いつしか自分の両親の夢に変わっていたのだ。喧嘩が絶えなかった両親は、やがて当然のように離婚した。
「ああ」
彼はソファーから目をこすりながら起き上がった。
「電気がついてるから、まだ起きてるのかと思った」
麻美が言った。ここに引っ越して来たら部屋数があり、彼らはそれぞれの部屋を持ち、別々に寝ていた。引っ越す前もベッドはいっしょだったが、もう何年も別々に寝ているようなものだったから、それは自然なことだった。
「もう寝るよ」
「そう、おやすみ」と、麻美は出て行く。
「うん、おやすみ」
施納は麻美がドアを閉め切る前に、そう言った。
3
施納は大手の建設会社に勤めていた。営業部1課課長だ。弟が亡くなって1週間たたずに出社し始めた。人員削減のせいで、休むだけ仕事がたまる一方だからだ。今はようやく元のペースに戻れそうになりつつある。
昼前のオフィスは人がいない。部下は外に出ているし、いるのは施納と、営業事務の江崎利香だけだった。その彼らも仕事に追われ、仕事の話、プリントアウトの音、ファックスの音など、いろいろな音が部屋中に響いている。
「課長」と、部下の国沢柊が書類を持ち、急ぎ足で入ってきた。「例の開発中の津江地区のマンション、工事が遅れているようですね」
「あてにならんな」
彼らがとった大きな仕事だった。今は仕事管轄は建築部に移行していた件だが、営業部としても、部下の国沢が管理部といっしょに入居募集で見学会を行っている。
工事の遅れはよくあることで、早く仕上がることの方が少ないから、驚くことではないが、納期には合わさなくてはならないので、終わり頃に突貫工事されるより、今からペースを上げてもらう方がよかった。
「でしょう?これからチェックに行きます。なんでもっと早く言ってくれないんですかね」と、国沢は舌打ちした。
「まったくだな、頼んだよ。おれも、今日はちょっと無理だが、今度見に行くよ」
「わかりました」と、国沢は元気良く走り出て行った。
入れ替わるように、廊下を女性社員が走って来たのが見えた。
「前島課長、おはようございます。牧本さんが、課長がいらっしゃったら、相手先とは3時に会うことになったと伝えておいてくださいって」
その声に廊下で振り向いたのは前島洋介だ。彼の机からはよく見える位置だ。
「あ、そう。わかった」
「携帯、入れてなかったんですか?連絡したのにつながらなかったって…」
「あ、そうだ」と、前島はあわててポケットから携帯を取り出し、電源を入れた。そのとき、ティッシュがポケットから落ちた。女性社員が拾い上げる。
「いやー、昨日は飲みすぎちゃってねえ。あ、それあげる」
と、前島洋介はにこにこ通り過ぎた。
前島は彼と同期の入社で、同じ営業部の2課の課長だ。施納の1課は得意先営業で決まっているが、前島の2課は得意先開拓が業務だ。いずれはどちらかが営業部長になるだろうが、最近、前島の2課が比較的大きな新たな仕事を取ったことで、内心、施納はあせりを感じている。
前島は施納と目が合うと、軽く手を上げ、挨拶して廊下を過ぎて行った。入社したての頃からの数年は、よく2人で飲みに行ったものだった。というのも人なつこい前島がよく彼を誘ったからだ。
麻美と結婚する前も、会社の人間では一番最初に紹介した。とても喜んでくれたものだ。
昔からいつもきれいな色のネクタイを締め、髪も乱しているのを見たことがないほど、きちんとした身なりをしている。
施納は一度、女子社員が給湯室で前島がかっこいいと言っていたのを、通りすがりに聞いたことがあった。独身ということもあるが、施納と違い、快活でよく冗談を言い、部下とも気軽に接していたこともあるだろう。
初め出会った頃から、前島は自分とはまったく違う性格、つまり相性的には本当は合わないと思っていた。もちろん施納の方が、屈託なく明るく接する前島に対して引いてしまい、反感のようなものを抱き距離をもっただけで、前島がどう思っているのかはわからなかったが。
部下の江崎利香が、彼を見ているのに気付いた。
「課長、2番に電話です。矢崎工業の土田さんからです」
施納は電話の2番を押しながら、すばやく仕事に意識を切り替えた。
夕方、まだ明るかった。施納は図書館の閉館時間があるため、早めに会社を出てきた。車を下りる。手には「ある詩人の生涯」を持っていた。
祖母が図書館からの電話を受けたとしても、警察に引き受けに行くのもいつも彼だったように、本を返しにくるのは彼だっただろう。
図書館は祖母の家の近くにあった。ずいぶんと汚れた古めかしい建物だが、学校や繁華街に近く、便利な場所にあるため、やって来ている人はけっこういる。
本を戻すと「間に合わないときは、一度戻して、もう一度借りるようにお願いしますね」と、司書は事務的に言いながら、図書カードを彼に返した。本人と勘違いしている。
図書カードをまじまじと見た。「真城光起」と住所、電話番号が鉛筆で書かれている。走り書きのような雑な字だった。しかしそれより、図書館がいまだに手書きのカードを使っているのが意外だった。施納は図書館を利用したことがなかったが、それでも今の時代、当然電子化されているのだろうと思っていたからだ。光起の手書きの字を見ると、彼が生きて生活していたことをリアルに思い起こさせた。
施納はカードをポケットに入れると、あたりを見回した。読書室には学校帰りの学生が多かった。本をめくる者、教科書で勉強する者、机に伏せて眠ってる者、ひそひそ話して笑ってる者、いろいろだ。
光起もよく図書館を利用していたのだろうかと、ふと思う。が、あの弟が図書館で本を読むという光景はどうにも思い浮かばなかった。
1人の女子学生とすれ違いざまにぶつかり、学生は本の間からコピー紙をばらまいた。急いでそれを拾い集める。施納もあやまって、あわてて拾うのを手伝って、その1枚に目が止まった。死体が映っている。
女子高生は眺めているままの施納の手から、その1枚をもぎとった。彼女が手にしている本の表紙も、首吊り写真がついていた。
彼女は黙って不機嫌そうな顔のまま、それらを抱えて走って行った。
施納はぼんやり見送ると、自分の手を見た。女子高生がコピー紙をもぎとったとき、小さな痛みを感じたからだ。手の平にはつうっと赤い線が現れ出していた。
トイレに行き、手の平を洗う。かすかな血が流れた。女子高生と残酷死体の本の取り合わせは、あまりに違和感があった。女子高生という一見、明るく元気で若々しい表面の裏側に、みんなああいう暗さが巣くっているものなんだろうかと思った。
いや、と彼は思い直す。誰にでも見せたくない裏側はある。光起も彼には見せない面が必ずあったのだろうと、そう思った。
手の平をまた押してみると、血がにじみでてくる。赤い筋。彼の脳裏に左脇腹、左手の中指、右耳の後ろ、左太もも内側、右臀部横、左足親指裏関節にあった文字のような傷の写真が蘇る。
彼は血が出なくなるまで、手の平を押すことを執拗に繰り返した。
車の中で、しばらくの間、送りつけられてきた弟の身体のマークの写真を眺めていた。が、やがてまた寄せ集めた。鞄の中に入れて持ち歩いている。どういう意味なのか、文字としていろいろ組み合わせてもみたが、わからなかった。
車の横を学校帰りの子供たちが騒ぎながら通り過ぎ、また外を見た。のどかな夕方は、施納に緊張感を失せさせた。
写真を鞄にしまおうとして、図書カードのことを思い出し、ポケットから取り出した。乱暴に書かれた住所と名前。おそらく本を借りるときに、急いで書いたのだろう。何気なく裏返すと、鉛筆で薄く数字が書いてあった。
それをじっくり見た。電話番号のようだ。いったいどこにつながるのだろう。興味をもった彼は携帯に手をのばすと、ゆっくりと確かめながら、その番号を押した。
「ありがとうございます。マンガ&ネットカフェ、パピー和泉店です」と、明るい声が聞こえた。
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